実在した黒人侍「弥助」奴隷から信長の家来になった数奇な人生 海外で映画化も

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◆重責担った本能寺の変
 弥助が自ら戦地へ出向いたのは、伊賀での戦の一度きりだ。瞬く間に信頼を育んだ信長との関係は長くは続かず、予期せぬ幕切れを迎えることになる。

 1582年6月、毛利軍と戦っていた豊臣秀吉から応援の要請を受けた信長は、明智光秀に出陣を命じる。信長は自らも30人ほどの家臣を引き連れ、本能寺に宿を取った。ところが21日の早朝、主君であるはずの信長に対して光秀が謀反を起こし、本能寺を急襲する。歴史に名高い本能寺の変だ。

 このとき一説では、最期を悟った信長は、行動をともにしていた弥助に対し、最大限の信頼を込めた指令を与える。自らが切腹した後、首が決して敵軍に渡ることのないよう、息子のもとに届けてほしいというのだ。こうして信長が自害し、側近の森蘭丸が介錯すると、その首は弥助に託された。

 信長の最後の威信を背負った弥助だが、不幸にも光秀の包囲網を突破することはならず、敵の手に落ちてしまう。ただし光秀が情けをかけたためか、命を取られることはなかった。本能寺の変以降、弥助についての記録は少なく、その後の経緯は明らかではない。一説によると日本のイエズス会のもとに送り返され、国内で余生を過ごしたとも言われている。

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Text by 青葉やまと