日本のスラム街5選 あいりん地区やほかの地域の特徴と歴史を学ぶ

日本のスラム街5選 あいりん地区やほかの地域の特徴と歴史を学ぶ

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「スラム街」と聞くと、犯罪が多く、衛生的にも劣悪な海外の地域を思い浮かべるのではないだろうか。日本は世界的に見ても治安が良く清潔だが、都市部にはスラム街を彷彿とさせる地域が今でも存在する。

本記事では、日本のスラム街と呼ばれる地域5選の特徴と歴史を紹介しよう。スラム街の定義や「ドヤ街」についても説明していく。

スラム街とはどのような場所?

スラム街とはどのような場所?

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もともと農村で暮らしていた貧困層が、仕事を求めて都市部に移住するものの、思うように職を得られず生活に困窮する場合は多い。そういった人たちが集まることでスラムが形成される。

スラム街の特徴として、狭小なスペースに多くの人が住み、住居の品質や衛生状態が悪い点、水道・電気・医療などのインフラが整備されてない点、犯罪が多い点などが挙げられる。

世界のスラム人口は増加傾向にある。とくにアフリカのサブサハラ圏、インドなどの南アジア、紛争国のリビアやナイジェリアは国民全体におけるスラム住民の比率が高い。

ケニアの「キベラスラム」の状況は最も深刻だ。トイレは20~40世帯に1個しかない。医療が受けられずに大人は若くして亡くなり、その子どもたちは孤児になる。児童労働や虐待も問題になっている。

日本にスラム街は存在しない?

江戸時代や明治時代には日本にもスラム街は数多く存在していたが、現在の日本には存在しない。かつて日本に存在していたスラム街は、江戸時代の被差別部落を源流とする場合が多かった。現在は、日雇い労働者が集まっていたり、治安が悪かったりする地域を揶揄して「スラム街」と呼んでいる状況だ。

今の日本に存在するのは「ドヤ街」

本記事で紹介する地域の中に、本当の「スラム街」はないが、「ドヤ街」と呼ばれる地域が含まれる。ドヤ街は、日雇い労働者が多く住む街のことで、「宿(ヤド)」を逆さに読んで「ドヤ」と呼んでいる。

安価で宿泊できる宿が集まっていることが特徴だ。街全体が日雇い労働者のドヤではなく、中産階級の住宅も混在している点でスラム街とは異なる。また、ドヤ街では強盗や喧嘩は起こりやすいが、スラム街ほどの重犯罪は少ない。

日本のスラム街5カ所を紹介

日本のスラム街5ヵ所を紹介

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本当の意味でのスラムではないが、日本でスラム街と呼ばれている有名な地域を5カ所紹介する。

日本のスラム街①大阪市西成区・あいりん地区(釜ヶ崎)

あいりん地区は、JR新今宮駅南側に位置するドヤ街だ。あいりん地区は、1922年の新町名導入前までは「釜ヶ崎」という地名だった。あいりん地区には数多くの路上生活者が生活しており、国勢調査でも正確な人口を把握できていない。宗教団体やNPOが頻繁に行う炊き出しの際は、公園に人が列を作る。

1960年代の高度経済成長期時代に、職を求める人が大量に流れ込んだ。この地区で生活する人々の雇用は安定しなかったため、1961年から暴動が続いた。暴動の影響で家族世帯が地域外の公営住宅に移動したことから、日雇い労働者の単身男性の割合が急増。治安が悪く、暴動や泥酔者を狙った路上強盗がたびたび起こっていたが、橋下徹元市長が2013年より実施した「西成特区構想」で改革されてからはほとんどなくなった。現在は、宿泊料金の安さからバックパッカーの宿泊地として人気を集めている。

日本のスラム街②東京都台東区・山谷地区

山谷(さんや)は、東京都台東区北東部にあった地名で、現在の清川・日本堤・東浅草付近のドヤ街を指す。『あしたのジョー』の舞台としても知られる。江戸時代中期には、吉原遊郭の客を送迎する車夫や清掃を行う労働者、被差別部落民などの貧困層が居住していた。

太平洋戦争の後、東京都によって被災者のためのテント村が用意され、これらが簡易宿泊施設へと変化する。復興を経て高度経済成長期が到来すると、労働需要が高まり、日本有数の日雇い労働者市場として発展した。

1979年に警察官が刺殺される事件が起き、1984年には山谷の暴力団と労働者を描いた映画の監督が暴力団に暗殺されるなど、暴動も多く治安が悪かった。

現在は、高齢化が進んで活気を失い、孤独死が多く「都市型限界集落」と呼ばれる。人口は減少したが、秋葉原・六本木・銀座への交通の便がよいため、現在は外国人向けの宿泊地として定着した。

日本のスラム街③横浜市中区・寿町

寿地区は横浜スタジアムや中華街のほど近くにあり、JR石川町駅から歩いてすぐの場所だ。寿地区はあいりん地区・山谷と並び、日本の3大ドヤ街とされる。寿地区周辺は、第二次世界大戦後、1955年までアメリカ軍によって接収されていた。

接収終了後の10年間は治安が乱れ、放火や乱闘騒ぎ、麻薬の売買、賭博、売春、売血事件が頻発し、無法地帯と化した。この頃に簡易宿泊所群の建設がはじまり、これにともない港湾労働に携わる日雇い労働者が大勢移入し、ドヤ街が形成された。

以前は日雇い労働者の街だったが、現在は高齢者福祉の街に変化してきた。生活に困った高齢者が流れてくる場所となった。

住所がない人は生活保護は受けられないが、寿地区では簡易宿泊所を住所にできることが理由だ。山谷地区同様、ここでも、バックパッカー向けの簡易宿泊所が建設され、「ドヤ街」のイメージを払拭する計画が進められている。

日本のスラム街④神戸市生田川周辺・新川スラム

新川スラムは、神戸を代表する繁華街・三宮から徒歩圏にある、現在の生田川地区を指す。1900年頃には新川スラムは東洋一のスラムといわれ、日本最大のスラムにまで成長したが、現在はその面影はなく、風情ある神戸の下町になっている。

この地域は、元は屠畜場を中心に形成された被差別部落だった。優れた屠畜技術によって、「神戸牛」の名声を支えた場所だ。大正期に屠畜場が地区外に移転したことをきっかけに、新川地区に住んでいた人々は仕事を失い、生活状況が悪化してスラム化する。

神戸神学校の学生だった賀川豊彦の活動により、新川地区の生活状況は改善された。1909年から新川に住み始め、近代的な生活を理想とし、住民に考えを伝導した。食堂の運営や教育支援を行って、新川に定着させていった。

日本のスラム街⑤名古屋市中村区・笹島地区

名古屋駅の西側、太閤通口付近の一帯を指す。名古屋城の城下町から西に外れた場所で、かつてはドヤ街だった。「笹島」は江戸時代まで使われていた名称だが、今は「ささしまライブ駅」の駅名で残っている。

現在は、古いビジネスホテルや風俗店など、全体的にさびれた雰囲気があり、ドヤ街の名残がわずかに感じられる程度だ。明治時代に東海道本線が引かれ、名古屋駅ができた。これにより商工業地域として栄えたと同時に中村遊郭も発展した。

2000年以降は再開発され、駅の東側はJRセントラルタワーズやタカシマヤがオープンして超高層ビル街へと変貌している。一方で、西側は地権者の問題や歴史的な理由から開発が進まず、東側と比べて雰囲気もかなり暗い。

日本のスラム街の歴史を知り、貧困問題や高齢化について考えよう

日本でスラム街というと、たびたび暴動が発生していた大阪のあいりん地区がとくに有名だ。本記事では取り上げなかったが、「修羅の国」と呼ばれる福岡県も治安の悪さで知られる。日本のスラム街の歴史を知ることで、貧困問題や高齢化、被差別部落問題について考えるきっかけになれば幸いだ。

今回紹介したような地域では、面白半分に動画を配信したYouTuberと現地の労働者の揉め事も起こっている。訪れる際は、住民に迷惑をかけないよう注意してもらいたい。

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Text by NewSphere 編集部