少年メッセージ自殺事件への有罪判決は、終末期問題の新法につながる?

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著:David Rossmanボストン大学 Professor of Law)

 マサチューセッツ州で、ミシェル・カーターという名の17歳の少女が、精神疾患の病歴を持つボーイフレンドに対し、何度も自殺を促した。そして彼はその通り自殺した

 2014年。コンラッド・ロイ氏は、トラックの座席で排ガスの一酸化炭素にまかれて朦朧となっていた。そのとき彼は考えを変えた。すべては計画どおりに進んでいたが、彼は恐ろしくなり、ドアを開けて外に出た。カーター被告がロイ氏にテキストメッセージを送ったのは、まさにその時だ。彼女は後に友人にこう語った「とにかく戻るように言った…… 彼は次の日にもまたそれを繰り返すと私にはわかっていたから。私はもうそれ以上、彼をそんなふうに生き続けさせることはできなかった。だから彼にも、させなかった。」

 カーター被告のメッセージを読んだ後、夕方からずっと自殺計画を進めるように促すカーター被告からのテキストメッセージを受け取っていた18歳のロイ氏はトラックに戻り、もう二度と息をしなくなる。

 これは「悲劇」か? もちろんそうだ。「カーター被告の行動は恐ろしく冷酷」か? そう、明らかに。「道徳的に卑しむべき」か? およそすべての倫理規範に照らして、その通りだ。

 しかし、法学教授と弁護士という二つの立場から、二つのさらなる疑問が私の心に浮かんだ。第一に、これは刑事事件か? 第二に、カーター被告の致死罪を認めた判事の裁定からは、いったい何が読み取れるのか?

◆言葉だけでも?
 マサチューセッツ州には、自殺を奨励する個人を罪に問う特定の法律はない。一部の人々は、そのことを理由に判決を批判する。しかし、ここ二百年間のマサチューセッツ州の殺人事件の判例法(判事たちが長年かけて積み上げてきた法)に照らせば、カーター被告の行為は確かに犯罪と認められる。

 1816年、軽窃盗罪でノーサンプトン刑務所に服役していたジョージ・ボーウェン被告(「面の皮の厚い、手の付けられない人でなし」と記述されている)は、隣の監房の囚人の死刑執行1日前に、その囚人を説き伏せて自殺させた。ボーウェン被告は殺人罪で裁判にかけられた。州最高裁のイサク・パーカー首席判事は、ボーウェン被告の言葉が刑務所内の隣人の「死を招いた」ことが合理的な疑いを超えて確かな場合には、有罪評決を下すよう陪審に指示した。このときボーウェン被告の陪審は、彼を無罪とした。しかし、法的原則は残った。1997年に米国最高裁判所は、ある訴訟の中でこの原則を認め、ボーウェン判決に依拠し、「憲法上、自殺幇助の権利はない」という判断を示した。

 2016年、ミシェル・カーター被告の弁護士が彼女に対する致死罪での告発に異議を唱えたとき、パーカー判事の後継者は、「無謀で無慈悲な文脈で発せられ、実際に他人を死に至らしめた場合には、誰かの言葉のみでも殺人事件の決定的要因になりうる」という考えを支持した。

 カーター被告が陪審なしの裁判を選んだことをうけ、当事件の判決を下した判事は、その通りの事実をそこに見出した。カーター被告の言葉が、実際にその夜コンラッドを自殺に至らしめたと証拠が示しており、カーター被告は起こり得る結果を軽く考え、無謀で無慈悲にそれらの言葉を発したと彼は結論づけた。言葉のみで人を殺せるかどうかについての議論はひとまずさしおいて、この有罪判決は、十分にマサチューセッツ州の法律主流の範囲内だ。

 しかしそれより厄介なのは、その判決が意味するところだ。

◆終末期のアドバイス
 もちろん、この判事が下した判決は、彼の目の前の事件に対してだけのものだ。しかしこれは、取り返しのつかない影響を招くかもしれない。そこに示された刑事裁判制度の基本原理は、ミシェル・カーター被告の言葉ほどには道徳的に悪くない言葉を捉えて、誰かを処罰しうる――そのように見るのは、私だけだろうか?

 医師は、終末期の意思決定について患者に助言する際、結果として患者が服薬中止して死亡した場合の刑事告発を心配しなければならないのか? 死期のせまった親族をもつ家族は、カーター被告と同じ論理で起訴されないように、生き続けるために可能なことは何でもしろと彼らに力説しなければならないのか?

 実際問題としては、そのような告発は、警察や司法当局がその事実を知らない限りは不可能だろう。あなたがメールやテキストメッセージの証拠を残さない限り、事実が露見する可能性は低い。が、それだけでは安心材料として不十分だ。適用範囲が広範で、本来は処罰すべきでない行動にも適用しうる刑法は、不当な恐怖を生み出す恐れがある。また、死期のせまった熟年の大人の相談に耳を傾ける医師や親戚が、おこりうる殺人罪での起訴の影におびえて行動しなければならないなどと、真面目に主張する者は誰ひとりいない。

 「そういうケースでは、きっと起訴を思いとどまるでしょう」と、自分たちが選挙で選んだ検察官の良識をあてにすることも、できなくはない。だが、他人の終末期の決定に責任ある立場で参加している人々からすれば、処罰制度の執行者たちの裁量に頼ってばかりもいられない。

 カーター事件の起訴を認めたマサチューセッツ州最高司法裁判所の法廷意見は、今回の裁定を他の類似事件にまで拡大適用することは好ましくないと、かすかに示唆している。法廷意見では、カーター被告がしたことは、「そのような状況に直面し、自分の人生を終わらせる決断をした熟年の大人を、支え、慰め、助力を差しのべる人物」の立場とは本質的に異なっている点を、あえて強調しているのだ。

 だが、この種の法廷意見中の限られた文言は、単なる意見表明であり、拘束力がない。カーター被告が有罪判決を受けた原則に具体的かつ意味のある制限を設けるため、立法府の行動が求められている。そしてその場所は間違いなく、カーター判決の影響を最も強く受けるであろう、マサチューセッツ州だ。

 おそらく今が、州の法律がこの問題に直接答えるべき時だ。「言葉が人を殺すか、否か」にまつわるあらゆる疑問を取り払うこと。死にゆく人の最後の日々をより静謐なものにしようと、癒しの言葉を口にする人たちのために、安全な拠り所を提供すること。この悲劇的な事件に対するマサチューセッツ州の対応は、国全体のモデルとなりうる。

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by Conyac

The Conversation

Text by The Conversation