一昨年、古くからの友人を訪ねてメキシコに滞在した時、近代メキシコを代表する芸術家夫婦、フリーダ・カーロ(1907-1954)とディエゴ・リベラ(1886-1957)のことをもっと知りたくなった。首都メキシコシティにはフリーダの生家、2人のアトリエハウスなど、彼らの生涯に思いを馳せることができる場所がいくつも残っている。

著名な壁画家と21歳年下の新進画家として出会い、強く惹かれあい、共に人生を歩んだ2人だが、フリーダは幼くして罹った病、そして18歳の時の事故による後遺症がもたらす苦痛と生涯一人で戦っていた。加えて、ディエゴの華やかな女性関係が、たびたび彼女を苦しめた。

フリーダが、孤独な闘病を続けながら描いた作品には、自分自身と身近な人々のポートレート、想像力によって生み出された光景、象徴的な静物画などがある。過酷な日々を、強固な意思で乗り越えながら獲得した、切実でリアルな作風は、ジャンルや主義を超越しており、今日なお、多くの人々を感動させる。壁画の巨匠ディエゴのスケールの大きな作品は、現地でなければその迫力を体感できない。彼の壁画の多くは、メキシコが辿った道のりを後世に伝える、壮大な歴史絵巻である。中米の大都市に生きた2人の足跡を、その人生とともに追った。

フリーダ・カーロ・ミュージアム

フリーダの生家「青い家」へ

「青い家(ラ・カサ・アズール)」の名前で親しまれている、フリーダ・カーロ・ミュージアムは、つい長居をしたくなるような居心地の良い場所だ。メキシコシティ南西部の落ち着いた佇まいの住宅地、コヨアカン地区に両親が建てたこの家で、フリーダは生まれ、少女期を過ごした。ディエゴと一緒にここで暮らした時期もあり、あまりにも早く訪れた死を迎えたのもこの家でだった。

フリーダ・カーロ・ミュージアム キッチン

当初はヨーロッパ風の家だったそうだが、フリーダとディエゴは1930年代以降に改修、増築を行い、内装を変え、メキシコらしい家となった。外壁は目の覚めるようなウルトラマリンに塗られ、増築部分の壁にはディエゴの案で、地元の黒っぽい火山岩が使われた。カラフルなキッチン、火山岩のマントルピース、光あふれる書斎兼アトリエ、木々が豊かに生い茂る庭、湧水のような噴水、珊瑚色のピラミッド……。青い家には2人の美意識がうまく調和している。

フリーダ・カーロ・ミュージアム

中庭に面した壁には「フリーダとディエゴは1929年から1954年までこの家で暮らした」とモザイクで書かれてある。事実とは少し異なるものの、2人が結婚し、フリーダがこの世を去るまで、この家は2人の拠り所だった。

フリーダの少女期、そして青春期は、革命を経たメキシコが欧州の思想を否定し、土着文化を再発見し始めた時代である。美術界においては、メキシコ・ルネサンスと言われる壁画運動が展開された。ディエゴはすでに、ホセ・クレメンテ・オロスコ、ダビッド・アルファロ・シケイロスらとともに、その最前線で活躍していた。2人が初めて出会った場所は、女性の入学が認められたばかりのメキシコ国立大学附属高等学校だった。フリーダは高校生、ディエゴは気鋭の壁画家として学校内の壁画を制作していたのだった。

フリーダ・カーロ・ミュージアム 庭のピラミッド

絵画への開眼

6歳の時にポリオ(小児まひ)に罹患し、右足が不自由だったフリーダが18歳になった時、追い打ちをかけるように、致命的な事故が起こった。彼女が乗っていたコヨアカン行きのバスが路面電車と衝突し、折れた鉄製の手すり棒が、後部座席に座っていた彼女の腹部を貫通、フリーダは生死の境をさまよう重傷を負った。手術後は孤独な療養の日々が続いた。経過は良好な時もあったが、たびたび悪化し、背中と右足の痛みに襲われ、ゆっくりと衰弱が進んだ。彼女は生涯に30回以上の外科手術を受けたという。

フリーダ・カーロ・ミュージアム フリーダのアトリエ

療養中、フリーダは初めて自画像を描いた。それは当時の恋人アレハンドロに贈ったものだった。彼女はもともと医者志望だったが、写真家である父の仕事を手伝ううちに、美術の才能を伸ばし始めていたのだった。事故により医者になるという夢を奪われてからは、ますます作画に力を入れるようになった。

フリーダ・カーロ・ミュージアム フリーダのアトリエ

21歳の頃、イタリア出身の米国人写真家で、共産主義運動に関わっていたティナ・モドッティと親しくなり、共産党に入党した。ティナを通じてフリーダはディエゴと再会した。ディエゴも共産党員だった。ワーカホリックだが、ユーモアのセンスを持ち、美男子ではないが、女性を褒めるのがうまい……。今をときめく壁画家は、女たちにとって魅力たっぷりの男だった。

ディエゴは、メキシコ中北部のグァナファトで生まれた。10歳の頃から、小学校に通いつつ夜間の美術学校に通いはじめた。しかし、授業に限界を感じて美術学校を自主退学、その後は独学で絵画を勉強した。1907年に奨学金を得てスペインとパリに滞在し、ピカソやアポリネールらと交友を結び、ロシア人と結婚した。メキシコに戻ると、数々の壁画制作に取り組み、メキシコの伝統を意識した独自の画風を確立する。1923年から1928年までは文部省の回廊の壁画という大作に取り組んでいた。

2人の再会は、ディエゴが2人目の妻との破局を迎えていた頃だった。画家になることを真剣に考えていたフリーダは、ディエゴに作品を見せ、率直な意見を求めた。ディエゴはフリーダの才能とその魅力に心惹かれた。そして1929年、2人は結婚する。

フリーダ・カーロ・ミュージアム
奥はディエゴがデザインしたマントルピース

テワナをまとって米国へ

結婚した頃から、フリーダは母の故郷であるオアハカ地方の先住民の伝統衣装、テワナを着るようになった。衣装からアクセサリー、髪型に至るまで、彼女のコーディネートはそれ自体が芸術作品だった。民族衣装をまとうことは彼女の思想の表現であり、同時に肉体的なハンディキャップを忘れさせてくれた。

ディエゴは、結婚した年にメキシコシティの国立宮殿の壁画「メキシコ人の歴史」に取り組み始めたが、それを中断して米国行きを決めた。フリーダも同行し、1931年はサンフランシスコとニューヨークで、1932年はデトロイトで過ごした。メキシコでは、壁画芸術の最盛期は過ぎようとしていたが、米国でのディエゴの評価は高く、仕事に不自由することはなかった。在米中には、ニューヨーク近代美術館でディエゴの個展が開かれ、同館最高の入場者数を集めた。当時は共産党から除籍されていたものの、共産主義者のディエゴが、資本主義の首都ニューヨークで大成功を成し遂げたのだった。

ディエゴがデトロイト美術館のフレスコ画に取り組んでいた時、フリーダは妊娠した。しかし3ヶ月を迎えた頃に流産し、救急車で病院に運ばれた。この悲痛な体験から「ヘンリー・フォード病院」(1932)という作品が生まれた。フリーダはこの作品を、医学の専門文献なども参照し、奉納絵(Retablo、Exvoto)のスタイルで描いている。奉納絵とは、病気や災難を乗り越えた時に、教会に納める絵のことで、「青い家」にはフリーダの奉納絵のコレクションが展示されている。彼女はその後も妊娠したが、子供を授かることはなかった。

フリーダ・カーロ・ミュージアム 奉納絵のコレクション

1933年、2人は再びニューヨークに引っ越し、ディエゴは新しく建設されたロックフェラー・センターの壁画「十字路の男」にとりかかった。ところが、壁画が半分以上完成したところで、現地の新聞が「作品における支配的な色は赤である」と報道すると、ロックフェラー・センターの空気が変わった。ディエゴは中央の労働者の顔をレーニンに似せて描き、ロックフェラー家をさらに刺激したため、制作中止が命られ、壁画は破壊された。2人はその年末、米国での滞在を終えてメキシコに戻った。

べジャス・アルテス宮殿
宇宙を支配する男

翌1934年、ディエゴは「十字路の男」を「宇宙を支配する男」と改題し、メキシコシティのべジャス・アルテス宮殿内に復元している。1935年には、米国行きで中断していた国立宮殿の大階段の壁画「メキシコ人の歴史」も完成させた。この2つの大作は、いずれも見学が可能だ。

べジャス・アルテス宮殿

サン・アンヘルの2棟に分かれた家

メキシコに戻ったフリーダとディエゴは、サン・アンヘル地区の家で暮らし始めた。この家もミュージアムとして公開されていたが、現在は改修工事中のようだ。メキシコの建築家、フアン・オゴールマンの設計で、住居とアトリエを兼ねたフリーダの家とディエゴの家がそれぞれ独立しており、屋上に架けられた橋を渡って行き来するという構造だ。ディエゴの家はやや大きめで、外壁は白と赤に塗り分けられ、フリーダの家はよりコンパクトで、青く塗られている。

サン・アンヘルの家

サン・アンヘルの家

ディエゴは1931年からこの家の建設に着手していた。彼はフリーダが独自の芸術世界を構築し、独り立ちするよう応援していたが、この家のかたちは、フリーダがディエゴに依存することなく、1人の芸術家として歩み始めたことを象徴するかのようだ。サン・アンヘルの家は、それぞれが一人きりになる時間を多く生み出すことになり、同時に国内外の文化人たちが集まってくる場所にもなった。芸術家やパトロン、政治活動家、亡命者などもこの家に出入りした。革命家レフ・トロツキーもその一人だった。

サン・アンヘルの家 ディエゴのアトリエ

引っ越してまもなく、フリーダを打ちのめす事件が起こった。妹のクリスティナがディエゴと関係を持ち始めたのである。1935年に描かれた「ちょっとした刺し傷」は、新聞記事となった事件を素材とした作品だが、深く傷ついたフリーダの姿を象徴しているとも言われる。この頃から、フリーダとディエゴの関係は少しずつ変化していった。それは夫婦関係とは異なる、同志のような関係への変化だったかもしれない。やがてフリーダは妹を許し、フリーダ自身も、異性や同性の恋人を持つようになる。

サン・アンヘルの家でのフリーダは、精力的に作品を描き、着実に画家としての地位を確立していった。1937年にはメキシコ大学のギャラリーで行われた展覧会に初出品した。翌1938年には、米国の俳優、エドワード・G・ロビンソンが4作品を購入、ニューヨークのギャラリー、ジュリアン・レヴィで初の個展も実現した。同年には、フランスのシュールレアリズムの詩人、アンドレ・ブルトン夫妻がメキシコにやってきて、フリーダの作品に魅せられ、パリに来るようにと勧めた。1939年には、パリのピエール・コル・ギャラリーで開催された「メキシコ展」に出展、ルーヴル美術館が彼女のポートレート作品「フレイム」(1939)を購入し話題をさらった。この作品は現在、パリのポンピドー・センターが所蔵している。

フリーダ・カーロ・ミュージアム

離婚と再婚

フリーダが約2ヶ月のパリ滞在を終え、ニューヨーク経由でメキシコに戻ると、夫婦の亀裂はさらに深まり、やがてディエゴから離婚の申し出があった。フリーダはサン・アンヘルの家を出て、「青い家」に帰った。

秋には離婚の手続きが始められた。「2人のフリーダ」(1939)と題された等身大ほどの大作は、この年の作品で、ディエゴに愛されたフリーダとその愛を失ったフリーダを描いたものだと言われる。オリジナルはメキシコ近代美術館に所蔵されている。

離婚が成立した1940年、フリーダはメキシコシティで開催された「国際シュールレアリズム展」、サンフランシスコの「ゴールデンゲート国際展」、ニューヨークの「20世紀メキシコ芸術展」の3つの展覧会に出品した。これからは自らの絵画で生計をたてようと考え、懸命に作画に取り組んでいたのだ。しかし、離婚から1年がたった頃、サンフランシスコ在住のフリーダの主治医の助言もあって、2人は彼の地で再婚した。一緒にメキシコに戻った2人は、サン・アンヘルの家ではなく、「青い家」で暮らしはじめた。

再婚してまもない1942年、ディエゴは念願だったアナワカリ・ミュージアムの建設に着手した。コヨアカン地区に近いペドレガル地区に、地元でとれる火山岩を使った神殿のような博物館が建ちはじめた。フリーダも夫の夢の実現に可能な限り協力した。メキシコの土着文化や民衆芸術の研究に熱心だったディエゴは、作画の資料として先征服期の彫塑像や工芸品を収集していた。5万点に及ぶ彼のコレクションが収蔵されている博物館は見学可能だ。

アナワカリ・ミュージアム

黒々とした要塞のような博物館は、今回の旅で訪れたティオティワカンのピラミッド遺跡を思い起こさせた。実際、建設当時には「ディエゴのピラミッド」と呼ばれていたのだそうだ。床や天井のモザイクには、赤い星、ハンマー、鎌など、共産主義のシンボルが配されている。ディエゴはこの建物を、コレクションの収蔵だけでなく、住居としても使おうと考えていたようだ。それだけではない、彼は博物館の周囲に、絵画館、手工芸館、音楽堂、劇場などを建設する予定だったという。

再婚後の、フリーダの創作活動は一段と勢いがつき、ボストン現代美術会館(1941)、ニューヨーク現代美術館(1942)フィラデルフィア美術館(1943)、ニューヨークのペギー・グッゲンハイム今世紀美術ギャラリー(1943)などに出品している。

加えてフリーダは教育にも携わった。1943年から文部省絵画彫刻学校「エスメラルダ」の教師として働きはじめたのである。彼女は生徒たちに、学校に閉じこもらずに街へ出て、外の世界を描くことを勧めた。健康がさらに悪化すると、「青い家」が学校代わりになった。ディエゴの弟子たちがロス・ディエギートスと呼ばれたように、フリーダの弟子たちはロス・フリドスと呼ばれ、のちに、民衆への芸術普及を理念とする左翼画家組織を結成する。

博物館の建設中もディエゴの壁画制作の筆が止まることはなかった。1946年から47年にかけて彼が制作した「アラメダ・セントラルの日曜日の午後の夢」は、ディエゴ・リベラ壁画館で見ることができる。この作品は、ホテル・デル・プラドの食堂の壁画だったが、1985年のメキシコ地震後に壁画館に移された。メキシコ史を代表する人物から、革命家、物売りに至る、さまざまな社会階層の人々が150人以上描かれ、中央にはフリーダの姿も見える。彼はこの時期、国立宮殿の回廊の壁画にも取り組んでいた。

ディエゴ・リベラ壁画館
アラメダ・セントラルの日曜日の午後の夢

フリーダへの栄誉

フリーダの病状は、1946年にニューヨークで受けた手術ののち、悪化の一途をたどったが、彼女の創作意欲が衰えることはなかった。1952年にはパリ、ロンドン、ストックホルムで開催されたメキシコ芸術展に出展、1953年にはメキシコで初の個展が、ローラ・アラバレス・ブラボ現代美術ギャラリーで開催された。画廊主は、フリーダへの栄誉は、死後ではなく生前に与えられるべきだと考えたのだった。

ヴェルニサージュの日、フリーダは医者に外出を禁じられていたが、ベッドをギャラリーに運び込ませ、自身は担架で担ぎ込まれて、画廊の中央に置かれたベッドに横たわって、多くの人に囲まれて個展の成功を目にした。しかし、肉体的な衰弱は進む一方で、夏には壊疽がすすんだ右足を切断しなければならなくなった。

フリーダは1954年に入ってからも、車椅子で共産党のデモに参加していたが、47歳の誕生日を祝った後に肺炎で亡くなった。彼女が亡くなる直前に描き上げた作品は、複数のスイカで構成される静物画で、現在「青い家」に展示されている。手前のカットされたスイカには「Viva la vida(生命万歳)」と書かれている。肉体的にも精神的にも多くの苦痛を味わった彼女が、生命を讃えつつこの世を去ったことに心を揺さぶられる。

フリーダ・カーロ・ミュージアム-Viva la vida

フリーダの死後、ディエゴは「青い家」と「アナワカリ・ミュージアム」を国に寄贈した。彼は懇意にしていた画廊主と再婚したが、癌を患ってからは、アカプルコの友人宅で療養し、作画を続けていたという。ディエゴは1957年、サン・アンヘルのアトリエで心臓発作のために亡くなった。

ドイツのフリーダ・カーロ・ミュージアム

ドイツ南部の保養地として知られるバーデン・バーデン市の「ゲアケ・レムンド・ミュージアム」が、フリーダ・カーロの作品、120余点の複製画を展示していることはあまり知られていない。いずれの複製画も、著作権を管理する「ディエゴ・リベラ&フリーダ・カーロ・ミュージアム・トラスト」の許諾を得て、プロの画家たちが制作したものだ。同ミュージアムは世界で唯一、フリーダの作品の複製の制作と展示が公式に認められた美術館だという。

フリーダは生涯に約200点の作品を描いたが、そのうちのおよそ6割がコレクターや個人の所有であり、行方不明の作品もある。1980年代から作品のリサーチを行ってきた、ミュージアム創設者のハンス=ユルゲン・ゲアケさんとマリエラ・レムンドさんは、所蔵する美術館や個人の協力を得て、オリジナル作品を細部にわたって撮影、作画技術を調査し、複製の制作に必要な資料を作成してきた。

職業上、北京を拠点の一つとするレムンドさんは、現地の画家たちと交流があり、そのうちの4人が複製の制作を申し出てくれた。フリーダ作品の複製は単なる模写ではなく、「画家の魂」を持つプロによって描かれるべきだと考えていた2人にとって、それは幸運な出会いだった。資料だけからでは複製が困難な作品は、制作そのものを断念した。

バーデン・バーデン市は、フリーダと縁がある。ハンガリー系ドイツ人であるフリーダの父、ギリェルモ・カーロは、メキシコにやってくる前に、バーデン・バーデンに住んでいたのだ。「青い家」には、フリーダが亡くなる2年前に描いた父親の肖像画「ドン・ギリェルモ・カーロの肖像」(1952)が展示されている。読書家で、ピアノを弾き、水彩画を描き、あらゆる学問に深い関心を持っていた父は、孤独な少女時代を過ごしたフリーダの知的好奇心を刺激したことだろう。フリーダは父から、カメラの使い方や現像、着色などの技法を習った。彼女に絵画の世界への最初の扉を開いたのは、父だったかもしれない。「ドン・ギリェルモ・カーロの肖像」には、フリーダの父親への深い愛情が感じられてならない。

フリーダ・カーロ・ミュージアム
ドン・ギリェルモ・カーロの肖像


ミュージアム情報

Museo Frida Kahlo | フリーダ・カーロ・ミュージアム(青い家)

1958年にフリーダ・カーロ・ミュージアムとして開館。絵画作品の他、フリーダの遺品、マルドニオ・マガニャの彫刻コレクションなども展示されている。

Museo Casa Estudio Diego Rivera y Frida Kahlo
ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロのアトリエハウス・ミュージアム(サン・アンヘルの家)

1986年にディエゴ・リベラとフリーダ・カーロのアトリエハウス・ミュージアムとして開館。現在改修工事中。

Palácio Nacional | 国立宮殿

大階段の壁には、先史時代から20世紀に至るメキシコの歴史を描いた壮大な壁画「メキシコ人の歴史」(1929-35)が描かれており、2009年に修復された。中階の回廊の壁画は先住民文化の連作。1951年ごろまで制作が続けられたが完成をみなかった。

Museo Diego Rivera Anahuacalli | ディエゴ・リベラ・アナワカリ・ミュージアム

フリーダもディエゴも、この博物館の完成を待たずにこの世を去ったが、ディエゴの娘、ルース・リベラと建築家フアン・オゴールマンが仕事を引き継ぎ、1963年に完成。翌1964年、前コロンブス期芸術の考古学博物館として開館。

Palacio de Bellas Artes | べジャス・アルテス宮殿

復元された「宙を支配する男」を収蔵。ディエゴ他の作品「独裁者」なども展示されている。

Museo Mural Diego Rivera | ディエゴ・リベラ壁画館

1985年のメキシコシティ地震後、1986年に設立され、1988年に開館。「アラメダ・セントラルの日曜日の午後の夢」(1947)が展示されている。

Museo Doroles Olmedo | ドロレス・オルメド・ミュージアム

「ヘンリー・フォード病院」(1932)、「ちょっとした刺し傷」(1935)などが所蔵されている。現在閉館中。

Murales del recinto histórico de la Secretaría de Educación Pública | 文部省の壁画

現在修復工事中

Museo de Arte Moderno | メキシコ近代美術館

フリーダの大作「2人のフリーダ」(1939)、ディエゴの「夜の風景」(1947)が所蔵されている。

Gerke-Remund Museum | ゲアケ・レムンド・ミュージアム

2008年に開館。フリーダ・カーロ作品の複製、約120点を所蔵。写真やビデオ映像、メキシコの民族衣装や手工芸品も展示されている。


Photos by Junko Iwamoto

岩本 順子

ライター・翻訳者。ドイツ・ハンブルク在住。
神戸のタウン誌編集部を経て、1984年にドイツへ移住。ハンブルク大学修士課程中退。1990年代は日本のコミック雑誌編集部のドイツ支局を運営し、漫画の編集と翻訳に携わる。その後、ドイツのワイナリーで働き、ワインの国際資格WSETディプロマを取得。執筆、翻訳のかたわら、ワイン講座も開講。著書に『ドイツワイン・偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)など。
HP: www.junkoiwamoto.com