アマゾンの話 2

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 私はといえば、自分のために使えるはずの時間とエネルギーをアマゾンの反対運動に費やすニューヨーカーたちの姿に感動すらした。そしてそこに、忘れかけていたニューヨーカーたちのスピリットを見た。自分の街で起きることは「自分ごと」であり、結果がどう出ようとも、満足していなければそれを表現しなければならない、という気持ちが強いのだ。前にも書いたように、ブルックリンに住んでいると日常的に「アンチ大企業」の空気感を感じているのだけど、ここまでの反対運動が起きることはそうそうない。

 前にこういう運動が起きたのはいつだっけ、と思い出したのは、ウォルマート進出反対運動だ。世界最大のスーパーマーケットチェーンのウォルマートは、ニューヨークに店舗を持たない。2000年代から何度かニューヨークでの開店計画を立てているが、その都度、住民たちからの反対にあって頓挫してきた。もっとも最近では、ブルックリンの中でも所得の低い地域のひとつであるイースト・ニューヨークへの進出を2012年に試みたが、その際にも激しい反対運動にあって断念した。ニューヨーカーがウォルマートを問題にするのには、労働者の扱いや福利厚生のクオリティの低さがある。市民たちは、自分の地域に暮らす住民たちが大企業に良いように使われるのが大嫌いなのだ。

 今回のこうした一連の流れを牽引したのは、ミレニアルやジェネレーションZと言われる若い世代だった。若干28歳でベテラン議員を引きずり下ろして下院議員になったオカシオ=コルテスが率いる若者たちが今、大企業優遇によって住民の圧迫を許してきた大人たちの勝手をこれ以上許さない、という強い意思を持って、ヘルスケアの向上や賃上げを求めるアクティビズムを繰り広げている。そして彼らの運動は、左派の政治家たちをさらにプログレッシブな方向にシフトさせている。

 こうした流れを見ていて、教えられたことがある。市民運動というものは、結果がどうなろうともやる意味があるということ。アクティビストたちがどのような結果を予想していたのかはわからないが、その精神には、「たとえ望まない結果に決まってしまったとしても、自分たちが反対したという事実を歴史に残さなければならない」という気概があった。そして実際、民意を動かせば、「決まってしまったこと」であっても、ひっくり返せることを証明した。政治の都合で「決まってしまったこと」を、そのまま受け入れる必要はないのだ。

 もうひとつ考えたこと、それは、アマゾンにとって、多くの市民は顧客でもあるという事実だ。顧客である市民たちの声が集合体として大きくなれば、アマゾンの方針にすら影響を及ぼせるのだと、運動家たちが教えてくれた。

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Text by 佐久間 裕美子