物の値段を考える 1

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 もうひとつ、大手のブランドへの懐疑的な気持ちを強固にしたのがアウトレットだった。渡米した当初は、日本から遊びに来た友達と訪れたこともあった。最初は多くのブランドが「難あり」の商品を放出する場所だったはずが、いつしか一部の大企業が「アウトレットのための商品」を作るようになった。安売りされるためにわざわざ作られた商品にブランド価値を見出す客がいるから成立する仕組みなのだけれど、これでますますブランドが奇怪な存在に思えるようになった。こうしたライセンスやアウトレットの仕組みは、長いこと、ファッション業界のきらびやかな表の顔を下支えてきた一方で、ブランドの価値を落とす結果につながったように思う。

 ハイファッション・ブランドと私とのつながりは、アメリカに留学したときに一度ぷっつり切れた。田舎の学生街でおしゃれをしても誰も見てくれないどころか、治安の悪い街だったので着飾ることはむしろマイナスだった。その後ニューヨークという街に移り住んでから最初の何年かは、家賃を払うだけで精一杯という生活だったから、若い頃に 無理して買ったブランド物を見て、つくづく身の丈に合っていなかったと実感したものである。

 社会人としてひよっこだった時代には、そこそこ流行に沿った服をリーズナブルな価格で買える、ファストファッションの力をときどき借りることもあった。安い服をいかに格好よく、安く見せずに着るかということに、一種のチャレンジ性も感じていた。同時にファストファッションを着ているときにスタイルを褒められると穴に入りたいような気持ちになった。「実はZARAなの」と言うときのちょっと恥ずかしい気持ち。そこで心やさしい友達は言うのである。「プラダに見えるよ」と。こう言われたときのもやもやした気持ちと言ったら!

 ファストファッションは、ハイファッションのメゾンたちがコレクションを発表したそばからそれをコピーし、途上国の工場で大量生産して、いち早く世界中の店舗に並べたもの。だから「プラダに見えるよ」にも頷けなくはない。でも「プラダ風」に見えるコピーを100ドル以下で買う、という行為にどんな意味があるのだろう? 流行の最先端を行っているように見えたいから? プラダを着ていると思われたいから? もちろんそんな意図はなかったのだけれど、それでも「なんだか自分、かっこ悪い」という気持ちにはなった。背伸びをしたり、無理をすることが、自分という存在を大きく見せるために存在しているのだと感じたのかもしれない。

 そして、デューティフリー・ショップでブランド品を買うこと、アウトレットに行くこと、ライセンスの商品を買うこと、ファストファッションを買うことは、同じ世界に存在しているように思えた。

 ライターとして雑誌の世界に入り、ものづくりをしている人たちに取材にするようになると、だんだん価格の仕組みというものが理解できるようになった。価格というものについてますます考えるようになった。特に、この連載の冒頭に書いたネイティブ・アメリカンの女性の言葉を胸に刻んでからは、物の価値や物につけられる正当な価格について考えるようになった。

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Text by 佐久間 裕美子