台湾の映像制作チームが描く「アート+歴史」 日本統治時代の画家を辿った『タッタカの思出』公開
◆日本人の日記から辿る台湾の歴史
「風景心境 : 臺灣近代美術文獻導讀」という文献の中で、石川が「タッタカの思出」というエッセイを残していることを見つけた3人。そして日本の軍人として唯一、山の向こう側からの景色を見ることができ、それを絵に残せた石川の足跡を辿ることにした。石川は後にタッタカでのスケッチをもとに「風景水彩画」の作品を描いた。そのうちの数枚は明治天皇へ献上されるほどの素晴らしい出来だったという。
你哥影視社は、石川の作品の優雅さが戦場の最前線でスケッチされた緊張感と乖離している点と、石川の旅の日記に記された緊迫した様子と描かれた作品とのギャップにさらに関心を持ったのだと話す。「アート作品は作品そのものに描かれていることだけではなく、スケッチという行為そのものにも大きな意義があるのではないか」と考えた你哥影視社は、その後残された日記や当時の新聞記事を頼りに、石川の旅の足跡を辿ってみることにした。
「タッタカという名称から調べても、石川の辿ったルートがなかなか見つけられないでいました。でもある時、石川が記したタッタカという表記が示す場所が、現在の台湾で広く知られている「塔塔加」と違っていたことがわかり、当時の石川が探索したエリアが、現在国立台湾大学(旧台北帝国大学)が持つ「山岳実験農場」の私有地内であることがわかったのです。さらに私たちが台湾大学にコンタクトを取った頃、手つかずのまま残されていた当時石川が宿泊した警察署跡を、偶然大学側が発見したばかりでした」と田さんは話す。こうしてプロジェクトは、実際に現地のルートを訪れる機会を得たことで一気に前に進み出した。
日本軍は、台湾の山奥に生息していた香木を確保するため、この地の制圧を目指していたという。石川は残した日記に「実際今盛んに交戦中の場所へ乗り込むのだから、却々呑気には考へられない。併し呑気に考えられなくなると、私などこれから果たして蕃地(ばんち:台湾先住民高山族の地)へ絵を描きにいくのか戦にいくのか少々曖昧にもなって来た」と軍人として「戦地を写生すること」を命ぜられたものの、その行為そのものに疑問を持つ複雑な心境を書き残している。