ギリシャの路上からNBA制覇へ ヤニス・アデトクンボの「アメリカン」ドリーム

Paul Sancya / AP Photo

◆アデトクンボの軌跡
 8月、LA在住のスポーツ記者であるミリン・フェーダー(Mirin Fader)が執筆したアデトクンボの伝記『Giannis: The Improbable Rise of an NBA MVP(意訳:奇跡の躍進―NBAスター、ヤニス・アデトクンボ)』が発刊され、彼がNBAスターとなるまでの軌跡が明らかになった。Voxのポッドキャスト番組『Today, Explained』に出演したフェーダーは、本で紹介されているアデトクンボのストーリーの一部を共有。伝記の執筆にあたって彼のさまざまなストーリーを掘り起こしたフェーダーは、無論コートでは大活躍の彼ではあるが、バスケットボールは彼についてのストーリーのほんの一部でしかないとコメントしている。

 フェーダーによると、アデトクンボの両親はともにナイジェリアで生まれ育ったが、70〜80年頃から原油価格が下落し、経済状況が悪化したことを受け、ナイジェリアを離れることを検討し始めたという。サッカー選手であった父親のチャールズはドイツでプレーできる可能性があったが、怪我のためその機会が断たれ、その後、両親はギリシャに住むことを決めた。アデトクンボと2人の兄、2人の弟は皆、ギリシャのアテネで生まれた。在留許可証を持っていなかった家族は、仕事や住居へのアクセスが限られるなか、厳しい生活を余儀なくされ、路上でCDやDVDなどを売ったり、高級ビーチ沿いで富裕層に土産物のアクセサリーなどを売り歩いたりして生計を立てた。さらには、ネオ・ナチ集団による移民に対する攻撃や、黒人に対する差別といった問題にもさらされた。

 彼のバスケットボールとの出会いは偶然だった。アデトクンボと兄弟たちがサッカーをしていたところ、スピロス・ヴェリニアティス(Spiros Velliniatis)という名の人物が、彼の身体能力を見出し、彼と家族の経済的な支援とともに、アデトクンボをバスケットボールの道へと引き入れた。ヴェルニアティスは、若き頃NBAプレーヤーを目指して米国にも渡ったが、NBA入りを果たすことはできなかった。紆余曲折を経て、ギリシャに戻り、バスケットボールのコーチとして若き才能の発掘に取り組んでいたところ、当時13歳のアデトクンボに出会った。NBAのスタープレーヤーの身体的要素を熟知していた彼は、アデトクンボの身体能力にNBAでの成功を確信した。当初、アデトクンボはバスケットボールに関心を示さなかったが、最終的にはヴェリニアティスの説得に応じた。アデトクンボは、その後、バスケットボールが好きになり、才能を発揮していくが、在留許可証を持たない移民として、トップチームに参加できないという壁にぶつかる。

 しかし、アデトクンボが17歳のとき、彼の噂を聞きつけたNBAスカウト陣が彼のプレーを見に、ギリシャを訪れ、最終的に彼のミルウォーキー・バックスへの入団が決定した。NBAへの扉が開かれた際、アデトクンボはギリシャ首相の計らいで、ようやくギリシャの市民権を獲得した。米国移住当初は、英語も喋れず、家族と離れて孤独を感じていたアデトクンボだが、のちに、家族も市民権を獲得し、渡米が可能となった。家族の合流後は彼の精神状態は向上し、NBAで頭角を現していった。ミルウォーキー・バックスは、いわゆるスター・チームではないため移籍も噂されたが、アデトクンボは残留を決定。昨年末、バックスと2億2800万ドル、5年間という条件で再契約を結んだ。

 アデトクンボは先の記者会見で、自分は人を喜ばせるタイプ(people pleaser)だとコメントしている。人々をがっかりさせたくない。ミルウォーキー・バックスとの再契約の背景にも、そういった想いがあったと述べた。人々の期待に応えたいという強い想いとハードワークが、ナイジェリアとギリシャ、そして世界のあらゆる人々をも勇気づける「アメリカン」ドリームの実現をもたらした。

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Text by MAKI NAKATA