インドネシア高速鉄道、なぜ日本は敗れたのか?・前編 知日派閣僚の更迭

 インドネシア高速鉄道計画は、まさに二転三転という言葉に相応しい展開を見せた。現在のジョコ・ウィドド大統領が率いる政権は、端的に言えば「弱い集団」である。ジョコ氏は闘争民主党所属の政治家だが、そもそもジョコ氏はその党首ではないし、闘争民主党自体も去年の選挙で大きな議席を獲得できなかった。一応は第一党であるが、いつ野党連合に巻き返しを食らうか分からない状況だ。

◆高速鉄道計画の発端
 ジョコ内閣は、度々その意見がすれ違うことで知られている。例えば今年初めにはハニフ・ダキリ労働大臣が「外国人就労者にインドネシア語試験を課す」と公言した。日常生活の場ではともかく、ビジネスシーンではほぼ100パーセント英語で会話が行われているのにもかかわらずだ。そしてこの宣言は労働省以外の各省庁から非難を浴び、結局は撤回された。

 このように現政権は、誰一人として強権を発揮することができない構図なのだ。これが和をもって尊しとなす日本なら上手くいくが、インドネシアはそうではない。ロシアや中国と同じで、強権的なリーダーがいないと物事が進まないという傾向がある。

 高速鉄道計画の顛末も、まさにそれだ。すべての始まりは2014年1月からだった。インドネシアの邦字紙じゃかるた新聞が、ジャカルタ〜バンドゥン間の新幹線建設について報道した。それによると、JICAを中心とした日尼合同のチームが同区間への建設計画、その採算性についてのリサーチを開始したという。

 この記事は現地邦人の間で話題となった。ジャカルタ在住の日本人駐在員にとって、インドネシア新幹線は密かな夢だったからだ。

 だが、今振り返るとこの記事の配信時点でのインドネシア大統領はスシロ・バンバン・ユドヨノ氏だった。ジョコ氏が大統領選挙で当選したのは、この年の7月のことだ。政権が変われば方針も変わる。だからこそ安倍首相は、ジョコ氏の当選が確定した直後に国際電話をかけたのだ。

 それでも2014年1月からちょうど1年の間、日系財界人は「インドネシア高速鉄道は新幹線でほぼ確定だろう」と胸の内で思っていた。もちろんこの間にも中国の鉄道関係者がインドネシアに自国車両をアピールし続けていたが、少なくともインドネシア国内の世論は「高速鉄道=日本の新幹線」だった。この国での日本のイメージは「サブカル天国」か「技術立国」である。

 ところが、2015年1月にイグナシウス・ジョナン運輸大臣が驚くべき声明を発表した。「高速鉄道計画は凍結する」と。

◆ジャワ偏重主義のはざまで
 2015年1月21日付けのCNNインドネシアの記事によると、ジョナン氏は「高速鉄道が実現した場合の想定運賃が高過ぎる」とした上で、「ジャワ島外にも多くのインドネシア国民が暮らしている。そして彼らの中には、鉄道そのものを見たことがないという者もいる。彼らに慈悲を向けるべきだ」と述べた。

 これは確かに正論である。インドネシアでは昨今「ジャワ偏重主義」が問題視されている。ジャワ島には高速道路も鉄道も国際空港もダムもあるのに、例えば東ヌサ・トゥンガラ州のフローレス島にはそうしたものがまったく整備されていない。しかしインドネシアはロヒンギャ族を迫害し続けるミャンマーなどとは違い、いかなる民族や宗教集団にも平等の政治的権利を与えている。ジャカルタ市民だろうとパプアのダニ族だろうと、持っている一票の重さは同じだ。

「ジャワ島に高速鉄道を作るくらいなら、少数民族の保護に資金を投じろ」このような声が出るのは当然だ。だからこそ、高速鉄道計画は一度凍結されたのだ。

 とはいっても、閣僚内には高速鉄道を熱望する意見もあることは事実だ。まずジョコ氏自身が、日中訪問の際にそういう節を見せていた。今年3月の訪日の際、当初は予定になかった東京〜名古屋間の新幹線乗車はジョコ氏の希望によるものだ。

 また、日本の新幹線導入に積極的な姿勢を見せていた閣僚も当時は存在した。中央大学卒業生の「知日派」ラフマット・ゴーベル前貿易大臣である。

◆三者会談がもたらしたもの
 バンドゥンは西ジャワ州の州都である。もしここに高速鉄道の停車駅を作るなら、西ジャワ州知事とバンドゥン市長の意向も当然重要だ。

 7月21日、ゴーベル氏は西ジャワ州知事アフマッド・ヘルヤワン氏とバンドゥン市長リドワン・カミル氏との三者会談に臨んだ。このことはじゃかるた新聞が詳しく伝えている。
結論から言えば、この会談は「三者で新幹線を推す」ということでまとまった。ゴーベル氏の働きかけに、地方自治体の首長が応じた形だ。

 ここで注目すべきは、リドワン・カミル氏である。この人物もゴーベル氏に劣らない親日姿勢を明確にしていて、日系ビジネスマンとの強固なつながりも持っている。とある日本人が企画した『バンドゥン・ジャパンフェスティバル』という催しにゴーサインを出し、さらにそのイベントにはアタリア夫人も参加した。

 愛妻家として知られるこの市長は、日本が携わる大型プロジェクトにおいて重大な鍵を握っていた。

 ところが、この三者会談が日本側にとっての墓穴となってしまった。翌8月の内閣改造で、ゴーベル氏が更迭されたのである。

後編につづく

Text by 澤田真一