失踪から20年 熱帯雨林・プナン族のために戦ったブルーノ・マンサー

ハンガーストライキをするブルーノ・マンサー(1993年4月6日)|Walter Rutishauser, Fotograf / Wikimedia Commons

◆強い意志が、くじけてしまったか
 1990年、マンサーはスイスへ戻った。父親ががんで、母親は手術を受けないといけない状態になり、マンサーの友人がわざわざ伝えに来たのだった。指名手配されていたマンサーは、偽装パスポートで出国に成功した。

ブルーノ・マンサーの写真。強度の近視で、眼鏡なしにはジャングルでは生き延びられなかったという|Satomi Iwasawa

 マンサーはジャングルを離れるときにプナン族に誓ったように、彼らの人権尊重と熱帯雨林保護を、弱者側の視点から西洋人として、あらゆる方法を使って訴え始めた。1993年にはスイスの国会議事堂前で60日間のハンガーストライキ(最後は危うい状態になった)をするなど、マンサーの活動は気迫に満ちていた。メディアがマンサーのことを取り上げ、スイスだけでなく国外でも多くの人たちが心を動かされ、熱帯雨林破壊の問題を考えるようになっていった。

 しかし、立ちはだかる大きな壁を大きく崩すことはできなかった。たとえば、マンサーが望んだ「熱帯雨林材の輸入禁止」はスイスでは法制化されなかった。それならば「材木の種類と産地明記を」という嘆願も、スイスで法制化に至ったのはマンサーが消息を絶った後だ。

 さまざまなキャンペーンを10年近く続ける間、プナン族の多くがマレーシア政府に強要されてジャングルの外に定住していった。意志が固かったマンサーは、次第に意気消沈していったようだ。マンサーは、行方不明になる前の半年間、マレーシア人の記者ジェイムズ・リッチーに、スイスから頻繁に電話していた。マンサーは、「戦いに負けた。ジャングルの中のお気に入りの場所で消えてしまいたい」と言っていたという。

 リッチーは、プナン族がバリケードを作って抵抗を始めたとき、マレーシアの環境大臣の忠告でマンサーを探し当ててインタビューした人物だ。マンサーは、プナン族のためにマスコミが必要だと思い、インタビューを受けた。リッチーは、マンサーの行いは人として正しいと感じたが、一国民としては受け入れ難く、政府と通じていたため、罪悪感をもちつつもマンサーを悪者のように書き立てた。

「マンサーは革命者やヒーローとして扱われて、政治的なトラブルはすべてマンサーにのしかかったと思います。マンサーは結局孤独だったから、かわいそうでした。政治には関わりたくなくて、プナン族と一緒に暮らしたかっただけなのに」とリッチーは言う。

 マンサーはジャングルで自死したのか、転落死したのか、水死したのか。それは誰にもわからない。わかっているのは、マンサーの活動が決して無意味ではなかったことだ。日本もボルネオ島の木材をいまも輸入する一方で、保全活動を行う企業やNGOもある。

Text by 岩澤 里美