失踪から20年 熱帯雨林・プナン族のために戦ったブルーノ・マンサー
◆マンサー第2の家族・プナン族は人権が軽視された
マンサーは、日本ではあまり知られていないだろう。新作映画は脚色した部分がある。ドキュメンタリー映画『Bruno Manser LAKI PENAN』や、スイスでマンサーに関わった人たちの声をまとめたブルーノ・マンサー基金の動画を参考に、マンサーの軌跡を見てみよう。
マンサーは、幼いころから、あらゆる動植物に魅了されていた。将来は自然に関わる仕事がしたい、スマトラ島やボルネオ島やアフリカのジャングルに住めたらと書き残していた。進学校卒業後は大学には進まず、10年以上山中で羊・牛飼いとして働き、手工芸や薬学なども学んだ。1984年、30歳のときにタイへ向かい、そこから南下してボルネオ島に着いた。
高地のジャングルで暮らすプナン族を見つけ、一緒に生活した。プナン語を教わり、調味料なしで食事した。葉をスプーンにして水を飲んだり竹筒を水筒にする、ヘビに噛まれたり危険な虫に刺されたら特定の植物で治癒するといったサバイバル術も覚えた。マラリア用の薬は持参していた。マンサーがプナン族の生活について綴った日記は、当時を知る貴重な資料となっている。たくさんの写真も残している。スイスの家族へは、手紙ではなく、声を録音したカセットテープを送っていた。
ある日、マンサーは、プナン族が住む地区に伐採業者たちが近づいていると知った。業者たちは、政府の許可を得ているからと先住民のことなど容赦しなかった。南米などの先住民とは違い、プナン族は何の権利も必要ない、現代化してあげるべき人たちだと政府からは見られていた。マンサーは、強者が弱者を搾取することに心を痛め、何もしなければ10年後は自然が破壊されると危惧した。
マンサーは外部者としてプナン族を指導するのは気が進まなかったが、プナン族のグループ(昔はみな一緒に暮らしていたが、分化した)を訪ね歩いて、伐採用の道路にバリケードを作ってブロックし、自分たちの土地だと権利を主張すべきだと説明した。そして阻止運動が始まった。業者が1つだったら伐採をストップできただろうが多数だったことと、政府が伐採を推進していたことで阻止は難航。マンサーは政府にとって「国家の敵」となった。