SNSで世界に届けられたパレスチナ人の声 クラブハウスでは相互対話

Nasser Nasser / AP Photo

 5月10日から11日間、パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスとイスラエルとの武力衝突が続いた。パレスチナおよびイスラエル双方において多くの民間人が巻き込まれ、犠牲となった紛争。同時に、パレスチナ人・イスラエル人たちの声が、これまでに以上に、ソーシャル・メディアによって発信された。とくに、構造的に弱い立場に置かれているパレスチナ人の「声」は、オンライン上における人々の団結に貢献した。彼らのオンライン・インティファーダとは。

◆「場所」をめぐる対立
 パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマスと、イスラエルの間で5月10日以降、軍事対立が激化し、双方の空爆が続いた。エジプト政府が停戦交渉を進め、20日、イスラエルとハマスは停戦合意に至った。11日間続いた武力衝突で、240名以上が犠牲になった。ガザ地区では、イスラエル軍の空爆によって少なくとも230名が死亡。犠牲者のうち65名が子供。一方、ハマスによるミサイル攻撃で、イスラエル側では2名の子供を含む、少なくとも12名が死亡した。軍事力は、イスラエル側が圧倒的に優勢。ミサイルなどを迎撃できる防空システム、アイアン・ドーム(Iron Dome)によって、ガザ地区から放たれるハマスのミサイルの多くを迎撃したとみられる。

 長年の対立が続いているパレスチナとイスラエルだが、今回の攻撃と対立の激化には、少なくとも3つの出来事が直接的に影響した。一つは、東エルサレム地区に住むパレスチナ人家族の立ち退き要求に対する、パレスチナ側のプロテストだ。1948年のイスラエル建国によって難民となったパレスチナ人が、当時、東エルサレムを占領していたヨルダンによって住居を約束されていた。しかし、その後、該当地域はイスラエル占領下となり、ユダヤ人大家は立ち退きを要求。本件に関しては、武力攻撃が開始した10日に最高裁の判決が下される予定だったが、その判決を前にプロテストが激化した。東エルサレムの住人は主にパレスチナ人である。

 二つ目の出来事は、ラマダン期間中、断食明けの集いの場所であるダマスカス門におけるパレスチナ人と警察との対立。ダマスカス門における集いは、プロテストのようなものではなく、断食明けを祝うパーティーのようなものだ。しかし、警察はバリケードをはり、ダマスカス門でたむろすることを阻止したため、緊張感が高まった。

 三つ目は、パレスチナ人のティーン数人が、超正統派ユダヤ教徒の少年に対して暴力を振るう様子を撮影し、動画共有アプリのティック・トック上でシェアした動画が拡散した出来事。これに対して、反アラブ人の過激なメッセージを標榜するイスラエル人によるプロテストが発生した。この出来事が一つの引き金となり、5月10日、対立が攻撃へと進展した。10日はイスラム教徒にとって重要なラマダン期間中であると同時に、ユダヤ教徒にとっても重要な暦であるエルサレム・デーであった。通常、エルサレム・デーには、多くのユダヤ教徒が神殿の丘(Temple Mount)を訪れる。イスラム教にとっての聖地でもある神殿の丘。この日、イスラム教徒たちはユダヤ人による「侵略」を待ち構えていたとされる。こうした状況下、イスラエル警察はユダヤ人の訪問をさし止めると同時に、神殿の丘にあるイスラム教の神殿、アル=アクサー・モスクを攻撃。330名のパレスチナ人と、21名のイスラエル人警官が負傷した。

 この一連の衝突を受け、ハマス側はモスクおよび東エルサレムにおける武力解除を要求する最後通牒を発した。しかし、イスラエル側は期限までにその要求に応じなかったため、ハマスによるミサイル攻撃が開始、イスラエル軍が応戦という結果となった。

Text by MAKI NAKATA