【スイスの安楽死(2)】自殺ほう助を受けた親友、そこに見えた「穏やかな死」

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◆飲食が無理になり、自殺ほう助団体に連絡
 Saraさんは、パリアティブケアの施設でも、生きられるまで生きなくてはという思いでいた。しかし、ある日、食べることはおろか、水を飲むこともできなくなった。体が受けつけず、水がのどをつたうことが不可能になったのだ。施設からは、延命するには人工的に体内に栄養を注入する以外にないと言われた。

 料理が得意だったSaraさんは、ちょうどがんが発見されるその前に、自分の料理教室を開き、食を通じての喜びを広めていこうとしていた。Saraさんにとって食事は非常に大きな意味を持っていた。Saraさんは、胃ろうで命をつないで、味覚という器官を使って味を楽しんだり豊かな気持ちになったりできないのでは生きている意味がないのではと感じた。

 そのときSaraさんの心に、それまで精一杯生きてきたという思いが満ちた。自殺ほう助を受けようと決め、夫、そしてYさん夫婦に相談してエグジットに連絡を取った 。

◆1日でも早くと、逝く日を自分で決定
 エグジットは、Saraさんの主治医からの診断書、本人の確固たる意思を確認し、一連の手続きを経て、自殺ほう助が可能になる最初の日を伝えてきた。Saraさんはその1日目を自分が逝く日と決め、前日に施設から自宅に戻った。

 Saraさんは、当時中学生だった上の子供には翌朝の旅立ちのことを伝えた。上の子供は、数日で結婚20周年を迎えるはずだった母親に対して、せめてその日を迎えてからではいけないのかと聞いたという。Saraさんは、自身の病状や、飲食ができないことがいかに耐え難いかを説明した。だからほう助を受けられる最初の日を選んだと。

 Saraさんの回復を信じつつ、病状が急激に悪化する前から看病にあたっていた母親には、逝く日を決心した翌日に自身で伝えた。

◆点滴の栓は、自分で開いた
 翌朝、エグジットの医師と看護師とスタッフが自宅に来た。自殺ほう助を受ける意思をSaraさんに再確認してから、致死薬の準備をした。自分で飲むことができなかったので、点滴で注入する形になった。

 夫、母親、Yさん、Yさんの夫が見守るなか、Saraさんは点滴の管の栓を自分で開いた。やり遂げたという安心感が、Saraさんの顔に表れたという。そして「私のわがままです。ごめんね」という言葉を最後に永眠した。その後、Yさんの義父のときと同様に、警察が来てSaraさんの死亡状況を確認した。

 死の援助は手続きとしては淡々と進んだけれど、Yさんには心がこもっているのがひしひしと感じられた。逝く人にも残される人にも本当に安らかな場を作ってくれて、感謝の気持ちがわいてきた。

 生前、Saraさんは、痛み止めのために意識がもうろうとしているなかで「ああ、まだ生きている。このまま死ぬことができたらいいのに」と言っていた。そんな苦しんでいた様子を間近で見てきたYさんは、Saraさんが自殺ほう助を受けられてよかったと思っている。

 Saraさんと出会ってから、文字通り、安らかに眠るまでの思い出は、色あせることはないという。

*補足
Yさんによると、その後、エグジット(ドイツ語圏)の規定に変更があり、現在は、自殺ほう助を受けるには、基本的に「最低3年間会員でいること」が必要だという。Yさんは、エグジットの終身会員になったことについて、「利用しないでよいなら1番ですけれど、自殺ほう助を受けられるかもしれないという選択肢を持てていることは、いま生きている上で安心感につながっています」と語った。

Text by 岩澤 里美