「植民地統治の象徴」エリザベス2世の負の遺産 アフリカ人が抱く複雑な思い

エリザベス女王(2000年5月)|Adam Butler / AP Photo

◆エリザベス2世とアフリカ
 女王が即位した1952年当時、アフリカ大陸の多くの地域が英国植民地として女王の統治下にあった。1957年のガーナ独立を皮切りに14ヶ国が独立を果たしたが、女王はコモンウェルスの首長として各国との関係性を維持し続けた。女王のアフリカとの繋がりは、エリザベス王女初の外遊として当時の南アフリカ連邦を訪問した1947年に遡る。21歳の誕生日を迎えたケープタウンで行ったラジオ演説では、次期王位継承者として全生涯を捧げるといった内容の宣言を交わした。また、1952年に父のジョージ6世が亡くなり、エリザベスが女王に即位したのは、エリザベス2世が公務で植民地のケニアを訪問していた時であった。

 その後もアフリカ各地での公務を重ねた女王。1961年にガーナを訪問した際は、同国を独立に導いた初代大統領クワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah)との社交ダンスをするといった象徴的なシーンもあった。また、アパルトヘイトを終焉に導いた南アフリカの初代大統領ネルソン・マンデラとも親交を深めていたようだ。

◆意見が分かれる、植民地統治の象徴
 女王は基本的には政治には直接的に関与しない象徴的な存在ではあるが、英国を象徴するという意味においては「政治的な存在」だ。旧英国植民地の人々にとっては、女王の存在はその残忍な植民地統治の象徴であり、負の遺産である。たとえば、1952年にケニアで勃発した英国統治に対するマウマウ族の反乱に対して、英国の植民地政権は15万人ものケニア人を収容所に入れた上で、去勢や性暴力を含む過激な拷問を行った。また、女王や英国王室が所有する王冠やジュエリーにはめ込まれたダイアモンドは、南アフリカで発掘された世界一巨大な原石だ。植民地時代の略奪の歴史を象徴するものとして返却を求める声も上がっている。

 エリザベス2世の他界のニュースを受けて、ケニア、ガーナ、ナイジェリアなどの各国の首脳陣はツイッターなどを通じて、哀悼の意を表明している。一方で、哀悼の意を表すのはもってのほかというような表明も少なくない(ニューヨークタイムズ)。たとえば、南アフリカの過激派の野党第2党である経済的解放の闘士(Economic Freedom Fighters:EEF)は、植民統治の過去を象徴するエリザベス女王の死を追悼しないという声明を発表。また、米国の名門大学に勤務するナイジェリア人教授、ウジュ・アニャ(Uju Anya)は、女王の死が近いというニュースを受けて、残忍な帝国の君主の死の痛みが耐え難いものであるようにといった内容のツイートをし、波紋を呼んだ。アマゾン創業者のジェフ・ベソスが非難ツイートをするなどして、さらに拡散したツイートは、ツイッターの規約違反だとして削除されたが、アニャは当初の発言の姿勢を貫いている。彼女の発言自体が良いものではなかったとしても、植民地の歴史という負の遺産を抱え続けるアフリカにおける、植民地統治者への目線を代弁するような論調の一つだ。

 ワシントンポストの記事は、エリザベス2世の負の遺産も認識すべきで、英国の歴史を「ホワイトウォッシュ」してはならないと主張する。誰が歴史を語り、何を重要とし、何を省くのかという点は、何が「事実」として語り継がれるのかに直接的に影響する。エリザベス2世の遺産について議論する上で、アフリカや旧英国植民地の視点を無視してはならないのだ。

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Text by MAKI NAKATA