ブルガリアから東アジアへ。日本のヨーグルトカルチャーの創造
◆「食べられない」から「かけがえのない」 に
明治は生きたブルガリア乳酸杆菌を使ってプレーンヨーグルトを生産するのは技術的に困難ではないことに気づいた。1971年、明治はこの革新的な製品を国内で発売し、単純に「プレーンヨーグルト」と名づけた。プレーンヨーグルトは消費者には不評だった。傷んでいるから酸っぱいのだろうと考えたり、そもそも口にして良いものなのか疑ったりする者もいた。
だが明治は耐えた。1973年、ブルガリア国有乳業会社とヨーグルトのスターター培養の輸入契約を締結後、製品名を「明治ブルガリアヨーグルト」と改名する許可を得た。
その狙いは、羊や牛の群れ、伝統衣装をまとったバグパイプ奏者、自然と調和して暮らす健康的な高齢者といったブルガリアののどかな田園風景をフルに活用して「本場のヨーグルト」であることを売り込むことだった。
1980年代、明治はこの戦略を詳細な微生物学研究やブルガリアとのさらに緊密な連携と組み合わせた。1984年の新しい明治ブルガリアヨーグルトはパッケージがスリムになり、製品の市場での存在感の構築に一役買った。
1996年には明治ブルガリアヨーグルトに政府発行の特定保健用食品の表示許可を受け、一層弾みがついた。以来、健康効果に重点が置かれた明治ヨーグルトのブランド戦略とマーケティングが展開されている。
◆ヨーグルトの聖地のブランド化
明治は、自社のブルガリアのブランドに新たな意味、イメージ、価値を植えつけることで、相当の利益をあげたばかりでなく、ブルガリアの「ヨーグルトの聖地」としての美しいイメージを国内に創り出した。
一方、ブルガリアでは日本人が作ったブルガリアヨーグルトの人気ぶりにマスコミが関心を寄せている。2015年のある記事では、明治ブルガリアヨーグルトはコカ・コーラよりも人気があると日本の消費者が主張していると記載している。
旅行や食事の情報であろうと経済記事であろうと、日本に関する大半の記事には、ブルガリアのヨーグルトのサクセスストーリーが載っており、この成功談は自国に対する誇りを掻き立てたい企業や社会主義脱却後のブルガリアの政治家らにも利用されている。
私が出会った多くのブルガリア人にとって、自国のヨーグルトが日本で新しく持った アイデンティティーはまさしくブルガリア人としての伝統を体現したものだ。同時に、自国のヨーグルトが世界の経済大国の1つに健康と幸福の象徴として受け入れられたことで近代的な世界との一層のつながりを感じている。
グローバライゼーションは世界各地で文化的価値を揺らがしているだろうが、日本国民の健康と栄養の源、ブルガリア国民の魂の癒しとなったヨーグルトの変容は奇跡的な事例だ。
This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by サンチェスユミエ