世界は「新冷戦」に突入したのか? 元スパイ襲撃事件、メディアの「扇情」

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◆二重スパイ襲撃は内部向けの「見せしめ」
 新冷戦勃発かとメディアを賑わせている直接的な要因は、3月4日にイギリス南部ソールズベリーで起きた二重スパイ襲撃事件だ。町の中心部にあるショッピングセンター前のベンチで、英国側に機密情報を漏らしていた二重スパイのセルゲイ・スクリパリ元ロシア連邦軍参謀情報総局(GRU)大佐と、長女のユリアさんが意識不明の状態で見つかった。ユリアさんは回復を見せているが、スクリパリ氏は依然危篤状態にあると伝えられている。

 2人の体から冷戦時代に旧ソ連が開発した神経剤「ノビチョク」が検出されたことから、英国側はロシア政府の関与があったと断定。市民100人以上が毒ガスに晒され、警官1名が重傷を負ったことも衝撃を与え、イギリス、アメリカ、西ヨーロッパ諸国など29ヶ国が計約150人のロシア外交官に国外退去を命じた。ロシアもこれに報復し、3月末までに25ヶ国約140人の西側外交官に国外退去を命じる事態に発展した。今回の両陣営による外交官退去処分は、冷戦時代を超える過去最大規模だ。

 「スパイ」「暗殺」という冷戦時代を彷彿とさせるワードによって起きた対立を、メディアが「新冷戦」と呼びたくなるのは無理もない。ウエスタッド教授は、3月だけでも各メディアに『新たな冷戦の到来』『プーチンの新たな冷戦』『トランプが新冷戦に備える』などの見出しが踊ったと指摘する。しかし、英BBCは、「このようなかつての冷戦との比較は、ミスリードを招くかもしれない」と釘を指す論調も見せている。米インディアナ大学で政治科学を研究するレジーナ・スミス准教授は、ニュースオピニオンサイト『The Conversation』で、二重スパイ襲撃事件は「国際的な事件を起こすために行なわれたものではない。国内向けのものだった。プーチン大統領は、これまでにも潜在的な敵を脅すために恣意的な訴追や暗殺という手法を用いてきた」と指摘する。もともとロシア側にも東西対立を煽る意図はなく、他の海外で活動する二重スパイたちへの見せしめだったに過ぎないという見方だ。

◆イデオロギー対立は消え多極化に向かう世界
 冷戦時代のようなイデオロギー対立がない現代の情勢を「新冷戦」と呼ぶのはふさわしくないと指摘する識者も多い。米シンクタンク・ウィルソンセンターのマイケル・コフマン氏も、冷戦が資本主義VS共産主義の二元論に基づいた争いだったのに対し、現代の競争は「パワーバランスによるものでも、イデオロギーに基づくものでもない」と指摘。「各国のリーダーが意識的に行った決定と彼らが進めた戦略、そして国際政治の一連の局面での利害の不一致」といった、複数の現実的な要素が複雑に絡んでいるとしている(BBC)。

 また、今のロシアは全盛期のソ連に比肩しうるようなスーパーパワーではないと、コフマン氏は指摘する。西側陣営との力の差は大きく、非常に限定された「ソフト・パワー」と呼ぶべきものだと言う。それでもプーチン大統領が強いロシアを誇示するのは、「国際秩序の中での生き残りをかけた戦い」そして、「ソ連時代までの超大国としての遺産を維持するための戦い」だと分析する。ハーバード大のウエスタッド教授は、ソビエト時代の超大国のプライドを懐かしみ、ソビエト崩壊後の混乱と腐敗の責任を西側諸国に求める国民意識がその背景にあると見る(フォーリン・アフェアーズ)。

 ウエスタッド教授は現在の国際情勢を次のように語る。「二極性は消え去った。もし、現在の国際政治に方向性があるとすれば、それは多極化に向かっている。アメリカは国際社会で力を失っている。中国はよりパワフルになっている。ヨーロッパは停滞している。ロシアはその秩序の指先に乗った餓えたハイエナだ。しかし、インド、ブラジルといったその他の大国も、各地域で急速に影響力を増している」

 多極化する国際政治の一要素に過ぎないロシアばかりをみて「新冷戦」だと騒ぎ立てるのは、それこそ冷戦時代の古い価値観にとらわれている証拠かもしれない。

Text by 内村 浩介