時間は何故、ときに速く、ときに遅く進むのか

flickr | Wes Peck

◆時間がゆっくり進むとき: パラドックス

 筆者は、時間がゆっくりと流れているように感じられた事例をさまざまな階層の人々から何百となく集めた。それらの状況はきわめて多様だが、大きく6つのカテゴリーに分類することができる。

 まず、拷問のような強烈な苦痛や、性的恍惚感のような激しい悦楽(楽しんでいるからと言って、必ずしも時間が速く進むわけではない)。

 次いで、暴力と危険。たとえば兵士は戦闘中、時間の進み方を遅く感じたと報告している。

 待つことや退屈さは、私たちにとってもっとも馴染み深い状況かもしれない。刑務所での独房監禁は、この分類の極端なケースだが、店の売り場にいて客が一人も現れないといった状況も同様だろう。

 LSDやメスカリン、ペヨーテなどの薬物を窃取したときに起こる意識変容も、時間の歩みを遅く感じさせるようだ。

 次に、高度な集中と瞑想は主観的な時の経過に影響すると考えられる。たとえば、多くのアスリートは、「ゾーン」に入っているとき、時間がゆっくりと進んでいると感じている。一方、瞑想の達人はそれと同等の効果を生み出すことができる。

 そして最後に、衝撃的なことや目新しいもの。人はなにか新しいことをするとき、時の流れを遅く感じる傾向がある。たとえば、難しいスキルを身につけようとするときや、日常からかけ離れた魅力的な場所で休暇を過ごそうとするときなどがこれにあたる。

 したがって、矛盾するようだが、ほとんど何も起こっていない状況でも、逆に多くのことが発生している状況でも、時間はゆっくりと進んでいると知覚される。言い換えると、状況の複雑さが、通常時よりもはるかに大きいときでも、そして反対にきわめて小さいときでも、同じように時の進む速度は遅いと認識されるのだ。

◆ある種の体験は他のそれよりも「密度」が濃い

 このパラドックスは一体どう説明できるのだろうか?

 時計やカレンダーの観点から見ると、それぞれの標準時間単位はまったく同じだ。1分間は60秒だし、1日は24時間だ。しかし、標準時間単位は、筆者が「人間の体験の密度」と称したもの、つまりそれが運ぶ客観的および主観的情報の量によって異なるのだ。

 たとえば、客観的に見て大きな出来事(戦闘など)が発生したとき、体験の密度は濃い。一方で、ほとんど何も起こっていないときも同様に、体験の密度は濃いことがあり得る(例えば独房監禁の場合など)。何故かと言えば、一見「何もない」と思われる時間が、実際には、自分やそのときの状況に対する主観的関与で満たされているからだ。そういった状況では、人は自分自身の行動や周囲の環境に注意を向け、その状況がなんてストレスに満ちているのかと考えたり、時間の流れの遅さに頭がいっぱいになってしまうことさえある。

 そういうわけで、このパラドックスは、その状況が如何に平常の状態から離れているのか、という点に依拠していることが分かる。私たちは奇異な状況にどうしても注目してしまう。それによって標準時間単位あたりの体験の密度が増幅され、結果として時間がゆっくりと進んでいるように感じてしまうのだ。

Text by The Conversation