自らを「武士の国」とした大日本帝国……そしてその思想は今なお残る
こうなると武士道は自己犠牲や愛国主義、そして天皇への忠誠を意味するようになった。武士道推進派はヨーロッパの騎士道精神を「単なる女性崇拝」であり、「男らしい」武士の理想に劣るものとしてはねつけるようになった。この新しい「帝国主義の武士道」は急速に国家イデオロギーの重要な構成要素となり、1945年まで日本の民間および軍事教育に広く使われた。
1895年以降に起きた武士道ブームは、日清関係の劇的な変化と同時に起きた。戦後数年間で何千人もの中国人が留学や商売、そして政治亡命のために日本に渡った。1900年代初頭、特に1904年から1905年の日露戦争勝利後に来日した人々が出会ったのは、武士道に魅了された日本の姿だった。中国人留学生も日本の学校や士官学校で、日本人のクラスメートとともに「武士のあり方」について学んだ。そこでは、武士道が日本の近代化と軍事的な成功のカギだと教えられた。
このような教えの根拠とみられるものがあちこちに散見しており、そこに疑問を挟む理由はほとんどなかった。その代わりに梁啓超など、影響力を持った中国の改革者は、中国を強化できるような自国の武士道的伝統を探した。のちに中華民国の総統となる蒋介石も、当時日本の軍士官学校の士官候補生だった。蒋介石は武士道に深く感銘を受け、帰国後の中国で同様の尚武精神を育てようとした。
◆未解決事項
帝国主義の武士道、というイデオロギーは、1930年代の中国侵略、そして1941年の真珠湾攻撃の際、日本人兵士に教え込まれた。このことから、外国の人々が日本の戦時中の行動と、武士道およびサムライの伝統を関連づけたとしても、無理のないことだ。
第二次世界大戦後、武士道は危険なイデオロギーとして徹底的に退けられた。しかし1970年代になると、日本の復興と急速な経済成長を文化的に説明するものとして、武士道が再び息を吹き返した。この新しい武士道は全般的に、忠誠心や美徳、正直さと自己犠牲を強調しており、軍事的な要素はあからさまに拒絶されている。
それから数十年たった現代、主流となっている武士道は、理想化されたヨーロッパ式の騎士道に触発された初期の理論に非常に近い。主張の強い少数右派は、時に極端な歴史修正主義で、より過激な戦時思想を復活させようとしている。しかし、少なくとも現段階では、こういう国家主義者は政治的少数派だ。一方、中国では日本の武士道を戦時中の帝国主義的な意味に近いものとして理解しており、第二次世界大戦の歴史がいまだに東アジアで解決されていないことを反映している。
20世紀の出来事は、今日まで日中関係に重くのしかかっている。日本のアイデンティティ、とりわけ武士道に対する根深い認識によって双方間に距離が生まれ、信頼が損なわれているため、これらの問題への対応がより複雑になっているのだ。
This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by isshi via Conyac
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