小児性愛の神父が手がけたステンドグラス、撤去めぐる動き フランス

CURAphotography / Shutterstock.com

◆ネットの意見さまざま
 リブ司祭のステンドグラス撤去についても、ネット上で目にする意見は多様だ。

 20minutes紙記事のコメント欄には、「撤去だけでは足りない。被害者たちに石を投げさせてステンドグラスを破壊するべきだ」とさらに過激な対策を提案する者。「小児性愛の傾向を目にしていながら見て見ぬふりをしてきた人たちの罪はどうなるのだ」と、沈黙の共犯者に目を向ける声。かと思えば、「ステンドグラスを撤去するのはやりすぎではないか? 代わりのガラスは誰が払うんだ?」と撤去の経済的しわ寄せを気にする声も。

 そうかと思えば、小児性愛を特に罪とは見ていなかった時代の例を引っ張り出す人も少なくない。たとえば、「それなら、ゴーギャン(筆者注:10代の少女を仏領ポリネシアで妻としていた)の作品も焼くのか?」といった具合だ。

 極端な意見が多いなか、「作家と作品を分けるかどうかの問題になるわけだけど、ポランスキー監督(筆者注:性犯罪で告発された人物なのにその映画を評価していいのかと何度か議論の対象となった)の場合と違って、この神父は、自分が子供たちに行った性的虐待から直接インスピレーションを得て作品を作っていたのだから、同じようには考えるわけにはいかない」と冷静に分析する意見もあった。

 映画や本であれば、読むのも見るのも個人の選択だが、居住地の教区の教会のステンドグラスとなれば、週末のミサや冠婚葬祭のたびに、嫌でも目に入るものだ。選択の余地がないという違いは無視できない。作家と作品を区別するべきか否かという型にはめて論じられる問題ではないのかもしれない。

Text by 冠ゆき