【写真】あの津波から10年 いまなお消えぬ破壊の爪痕
東日本大震災の被災地を写した写真は、いまなお、見る人の心を強い力で締めつける。
もともと繁華街だったその場所を、瓦礫とひしゃげた鉄骨が埋め尽くし、巨大なタンカーが乗り上げている。何とか津波を生き延びた人々が、憔悴しきった様子でその船の下を歩く。横倒しになったいくつもの船が、まるでおもちゃのように散らばっている。完全に倒壊した家屋の跡地で、悲嘆に暮れる住民らが、瓦礫の中から何かを探している。破滅的なメルトダウン事故がまだ収束していない福島第一原子力発電所。その付近には、放棄された農地が広がる。
見る者の心を強く揺さぶるこれらの写真は、2011年の東日本大震災の直後にAP通信が撮影したものだ。この震災では、東北地方と関東地方の沿岸を襲った巨大な津波が、そこにある車も家屋も事業所の建物もすべて押し流し、1万5000以上の人命を奪った。
あれから10年。APの取材チームは、いまでは東日本大震災と呼ばれるその災害で一度は壊滅した被災地のコミュニティを取材するため、再びこの地を訪れた。火山噴火、津波、地震、戦争、飢饉―― 何千年にもわたって幾多の災禍と向き合ってきたこの地で、また同じ場所での再建復興にかける人々のエネルギーには目を見張るものがある。実際、10年前の破壊の跡をほとんどとどめない地域もいまでは存在する。
だが、東日本一帯を襲った地震・津波・メルトダウンという3つの複合災害は、日本がかつて直面したことのない未曽有のものだった。10年前のその日以前と変わらぬ日常を取り戻すための道のりは、いまでも計り知れないほど遠い。被災して自宅を追われた人の数は、実に50万人を数える。そのうち数万人は、いまだに地元を離れたままだ。震災前まで、東京などの大都市圏に若い世代が流出しないよう町づくりの努力を積み重ねてきた多くの地方自治体が、この震災をきっかけに人口の激減にみまわれた。放射能汚染への懸念も、いまだに解消していない。政府の無策、無意味な政争、官僚組織内の対立―― それらが復興事業の実施を妨げ、遅らせてきた。
多くの被災地がいまなお山積みの課題を抱え、復興の進み具合も、地域によって大きな隔たりがある。だが、それでもなお、2021年現在の東北地方では、国・地方・個人それぞれのレベルでの復興にかける強い決意が、目覚ましい復興を被災地にもたらしているのもまた事実だ。ただし、少し注意して現地を見れば、最も劇的な復興を遂げた地域のなかでも、やはりそこには2011年当時の破壊の痕跡と、現地の人々が心に負った深い傷跡が、いまでも消えずに残っていることが見て取れる。
被災地の過去と現在を映したAPの写真の数々は、ひとつの大きな問いを投げかける。あの巨大な破壊の後に、被災地はいかなる変化を遂げてきたのか?
ある意味においては、答えは非常にシンプルだ。当時そこにあった大量の瓦礫は除去され、市街地に乗り上げて傾いたタンカーも、すでにそこから移動した。震災直後にはひび割れ、ゆがんで上下に波うっていたアスファルトの道路は、再びきちんと舗装が整えられた。汚泥を除去した跡地は嵩上げされ、そこに真新しい建物がいくつも建てられた。
しかしまた、この過酷なまでに急激に変わりゆく被災地の景色は、実際にその場所に住む人々の間にうずまく、語り尽くせない多くの物事を伝えている。そこに見えるのは、現地の人たちの驚くべき回復力とひたむきな努力の跡、そしていまだに消えない人々の悲しみや怒り。さらには、過酷な自然の力、あるいは官僚的に進められる復興事業など、住民自身の力を超えた巨大なパワーに対して、強く抗う人々の存在だ。
復興の前と後。被災当時と現在。それを比較して示したこれらの印象的な写真のなかには、いまここに挙げたすべてが、あるいはそれ以上のものが凝縮されている。
これらの写真が伝えるのは、この地に起きた巨大な変化と、その変化を実際に起こしてきた多くの人々のストーリーだ。ぜひ、じっくりと見て欲しい。
By FOSTER KLUG Associated Press
Translated by Conyac