瞑想アプリで心を落ち着かせる――仏教のマインドフルネスとは違うけれど

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著:Gregory Grieveノースカロライナ大学グリーンズボロ校、Head and Professor, Religious Studies Department)、Beverley McGuireノースカロライナ大学ウィルミントン、Professor of East Asian Religions)

 何かとストレスの多い現代社会。いま起きていることに注意を向ける 人気のスピリチュアル活動の一種、「マインドフルネス」を実践すれば、日々の生活の心配事やストレスを癒すことができる。インターネットには人気の万能マインドフルネスアプリがたくさん存在する。都会暮らしの忙しいビジネスパーソンからダイエット中の人、さらには不眠症患者子どもにいたるまで、ありとあらゆる利用者を想定している。

 我々はソーシャルメディア研究専門としている仏教学者である。2019年8月にアップルのアプリストアグーグルプレイを調査したところ、仏教に関係のあるアプリが500以上もあった。その大半は、マインドフルネスの実践を中心とするものだった。

 こうしたアプリは本当に仏教の理想を追求しているのか、それともお金を生む消費者市場の産物だろうか?

◆健康上のメリット
 今日のアメリカで実際に行われているマインドフルネス瞑想では、いかなる判断も加えることなく、与えられた環境でその時感じることにひたすら注意を向けようとする。私たちは計画を立てたり問題を解決したりと、ストレスの多いタスクに多くの時間を費やしている。マインドフルネスの実践では、これとは反対のことをするとされている。

 仏教アプリが目指すマインドフルネスの実践では、ガイド付き瞑想、呼吸法の練習やその他のリラクゼーションが関係している。治験の結果、マインドフルネスによりストレス、心配事、身体の痛み、不眠、高血圧の症状が軽減されたという。しかしながら、マインドフルネスアプリに関する研究実績はほとんどない。

 現在、一般的に理解されているマインドフルネスの由来は、仏教で人の身体、感情、精神の状態を認識するサティという概念だ。

 初期の仏教の経典によると、マインドフルネスとは単に注意を向けるだけでなく、ブッダの教えを思い出すことも意味しており、熟練と不熟練の思考、感情、行動を見分けることができた。それは必然的に、輪廻からの解放につながる。

 例えば、仏教の経典「念処経」には、呼吸や身体に注意を向けるだけでなく、自身の肉体と墓地に埋葬された死体を比較し、肉体の始まりと終わりをよく理解することについて記述されている。

「人は知識と認識に必要な範囲で、肉体の存在を気にかけている。また、人はいまなお離れたところにいる。この世界で手にできるものは何もない」と経典は記している。

 そう、マインドフルネスによって人は非永遠性を理解できるようになる。モノへのこだわりがなくなり、より高い意識を求めることで、最後には悟りの境地に達することができるのだ。

 初期の仏教でマインドフルネスを実践していた人たちは、肉体の美、家族の絆、物質的な豊かさなど社会で主流となっている価値や文化的な規範に批判的だった。

 他方、マインドフルネスアプリでは、利用者に対して社会と対峙し、適応するよう促している。政治的、社会的、経済的な意味で、苦痛やストレスに関係する原因や条件を見過ごしているのだ。

◆お金を生む市場
 マインドフルネスアプリは巨大で収益性の高い市場の一部を構成しており、約1億3,000万ドルの市場規模がある。

 CalmとHeadspaceという二大アプリが市場の7割を占める。両アプリの利用者層は幅広く、信仰心の厚い消費者だけでなく、自身のことをスピリチュアルだが信心深くないと考えている多くのアメリカ人も含まれている。

 平均的なアメリカ人は一日5時間以上も携帯端末の画面を見ている。約8割のアメリカ人が、起きてから15分以内にスマホをチェックしている。アプリは、外出中に瞑想を行う方法を提供する。

 仏教アプリが存在するという事実は特段驚くことではない。仏教では常に、教義を伝えるのに最新のメディアを巧みに使っているからである。例えば、最古とされる経典に、9世紀に作製されたサンスクリット経典である金剛般若経の漢訳写本がある。

 こうしたアプリは、古代仏教の教えを最新のデジタル技術で装いを新たにしたものにすぎないのだろうか?

◆仏教の教え?
 仏教アプリが現実社会の苦悩を写し出していることは間違いない。だが我々の考えによれば、宗教的な要素を全て取り除いたマインドフルネスは、仏教に対する理解を歪めてしまう可能性がある。

 仏教の中心教義は無我の概念である。つまり、変わらないもの、永遠の自己、魂その他の本質はないと信じることである。宗教に対して個人主義的な接近をしていくと、仏教アプリはこの宗教が実践している性質そのものに反してしまうことになりかねない。

 実際、我々の研究によると、仏教瞑想アプリではこの世にある苦痛を取り除く治療はできないが、多くの人が今日直面している不安定でストレスの多い社会でみられる現実の症状を覆い隠してしまう、麻薬のような働きをしている。

 そのとき、仏教アプリはスマホによって引き起こされる不安を癒すどころか、スマホ中毒を助長し、しまいにはストレスをさらに溜め込んでしまうことになる。

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by Conyac

The Conversation

Text by The Conversation