謝罪の流儀 ラリー・ナサール氏の謝罪は何を意味するのか

Matthew Dae Smith / Lansing State Journal via AP

著:Ashraf Rushdyウェズリアン大学 Benjamin Waite Professor of the English Language) 

 米国体操連盟の元医師ラリー・ナサール氏は、量刑手続きが始まる前に、性的暴行を加えた160人以上の女性に対し、正式に謝罪した。ナサール氏は、セクハラ問題の有名人リストに名を連ねることになった。ここ数カ月という短い期間に、多くの公人性的暴行を告発され、公の場で謝罪してきた

 これに関して、彼らの謝罪に何の意味があるのだろうと疑問に思う人も多いだろう。実際、ナサール氏は、これまで謝罪を重ねてきた男性らと同様、十分な謝罪は不可能だとし、以下のように述べている。

                                                                                                                 

告発された件について、私がどれほど申し訳なく思っているか、その深さ、その大きさを言い表せる言葉がない。被害者の全員が満足するような謝罪の言葉を並べ、伝えることは不可能だ。

 では、ナサール氏を始めとする有名人が、公式に謝罪する時にしていることとは、何だろうか。

 私は近日発表予定の本で、ここ数カ月間で私たちが目にした著名人の謝罪などを含め、様々な種類の公的な謝罪をふり返る。そこで言いたいのは、公的な謝罪は、一種のパフォーマンスであり、そのためプライベートな謝罪とは別のものとして解釈すべきということだ。

◆公的な謝罪とは?
 著名人の謝罪がテレビで放送され、数百万人がその様子を見るというのは、比較的最近始まった現象である。

 当時共和党からアメリカの副大統領候補に指名されていたリチャード・ニクソン氏は、1952年にアメリカ国民に向けテレビ放送された「チェッカーズ・スピーチ」において、財政上の不正容疑について、自身を擁護した。ニクソン氏は、はっきりと謝罪の言葉を口にしてはいないが、ジャーナリストのカーイン・ジェイムス氏は、そのスピーチは「弁明口調」で始まったと記している。

 1998年には、ビル・クリントン氏が、アメリカ国内で放送されたテレビ演説で、ホワイトハウスの実習生であったモニカ・ルインスキー氏とのスキャンダルを謝罪した。クリントン氏は、後悔の念を表明したが、責任は否定した。しかしこの謝罪は失敗に終わった。テレビ放送の直後にCNNが実施した世論調査では、回答者の60% が、クリントン氏は「申し訳ありませんでした(I’m sorry)」という言葉をはっきり口にするべきだったと答えた。

 クリントン氏は、それから1ヵ月も経たないうちに、ホワイトハウスの祈祷朝食会(prayer breakfast)で、謝罪をやり直した。クリントン氏は、この時にはアメリカ国民の求めていた「申し訳ありませんでした」という言葉と、さらに「罪をお許しください(I have sinned)」というアメリカ人には馴染みのある聖書の言葉を用いた。

 このような公的な謝罪を研究しているエドウィン・バッティステッラ氏は、著書『Sorry About That(それについては、ごめんなさい)』で、クリントン氏の謝罪がいかに上手い謝罪であったか語っている。実際に、2度目の謝罪では、誠実さが見られたとする意見が前回よりも多く見られた

 これこそが、公的な謝罪のポイントだ。このポイントを覚えておけば、公人には市民に再び受け入れてもらえるチャンスがある。

◆公的な謝罪の目的
 まずここで言いたいのは、著名人の謝罪と、裁判所で被告が犯罪行為を謝る時の謝罪は、そう変わらないということだ。どちらの謝罪も、その背後に何らかの思惑があって行われるものだ。

 例えば、企業の場合を考えてみよう。哲学者のニック・スミス氏が、著書『Justice Through Apologies(謝罪の正義)』で論じているように、企業は、自社の法的責任が大きくならないようにと思って謝罪をする。同じように、哲学者のジェフリー・マーフィー氏は、被告が、減刑がかかっている時に裁判官に対して行う謝罪に、どのような意味があるのか解説している。ナサール氏の謝罪は、量刑手続きに入る少し前に行われたものなので、著名人の公的な謝罪と、裁判所における謝罪の両方の要素を併せ持っている。

 謝罪とは、言い換えれば、被害を小さくしようと試みることである。

 消費者至上主義の現代社会においては、一般市民が、神のような存在だ。そのため著名人は、まるで先人たちが神に懇願する時のような態度で、私たち市民に謝罪する。例えば1967年には、裁判官のサミュエル・シーウォル氏が、集団ヒステリーによって無実の20名が処刑された、サーレムでの魔女狩り裁判に関与したことを謝罪するために、ボストンのサウス教会を訪れた。シーウォル氏は、集会に参加していた仲間に「許し」を求めたが、彼が懇願していたことは主に、魔女狩りに関与した罪を始めとする自身の罪を、「無限の権力を持つ神が、許してくれますように」ということだ。

 現代の公的な謝罪は、広報活動の一環である。公人の大半は、聴衆に対し、自分の商品をボイコットしないよう、つまり自分の名声を落としてくれないよう懇願している。

◆公的な謝罪とプライベートな謝罪の違い
 プライベートな謝罪は、また別のものだ。

 ある人がどの程度誠実なのか見極めるために、謝罪後の態度を観察するというのはよくあることだ。そうすれば謝罪をした人が、本当に言動を改めたのか判断できる。著名人の謝罪の場合には、市民はそれができる立場にない。

 プライベートな謝罪は、パフォーマンスの一種ではない。プライベートで友人や恋人に謝罪をされるという場合、それを聞くのは1人か、多くて数人だ。そして彼らはパフォーマンスのプロではない。著名人や公人は、数百万人の聴衆に向けて謝罪をしている。

 プライベートな謝罪は、聞く相手が決まっているものだ。一方、公的な謝罪は、知らない誰かが聞くことを意図したものだ。

◆なぜ謝罪が重要なのか
 しかし公人としての生活においても、謝罪の重要性というのは、プライベートのそれと変わらない。どのような形であっても、謝罪には、許されるものの限度を示し、私たちに警告を発するという重要な役割がある。

 日常生活の中で、同じ行動や似たような行動を繰り返し、何度も謝罪する人がいたとすれば、その振る舞いの背後にあるより深い問題(例えば怒りや軽蔑)が明らかになる。被害者が相手を許す時には、その行為は許せないものだと理解した上で、許している。

 ここ最近、公的な謝罪が何度も行われる中で、女性に対する犯罪への怒りが明るみに出た。そして権力のある組織がその行為を支持することは、もはや許せる行為ではないということがわかった。

 結局のところ、謝罪そのものには限界があるということに注意が必要だ。日常生活においては、行動を改めなければ、「ごめんなさい」という言葉に何の意味もない。

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by t.sato via Conyac

The Conversation

Text by The Conversation

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