「娘はもう宿題しません」カナダの母親の宣言が大反響 欧米の宿題に思うこと(コラム)
先月末、カナダのケベック州の母親が、娘の学校の教師たちに「娘は宿題をしません」とメールで宣言して話題になった。母親がそのメールをフェイスブックで共有すると5万5千の「いいね!」が集まり、ほかの母親たちだけでなく、教師、小児心理学者などのプロフェッショナルからも称賛を浴びた。グローバルニュースなどの現地メディアだけでなく海外のBBCも報道するなど、大きな反響を呼んだ。
◆宿題がストレスで体調不良に
話題となったこの10歳の少女は、4時半に帰宅してから2、3時間の分量の宿題をこなす毎日を送るうち、胸の痛みを訴えたり、宿題が心配で午前4時に目覚めたりするようになったという。専門家に相談した母親が、学校に上述の宣言をした。少女は宿題以外にも自主的に本を年間10冊以上読むような、勉強熱心な子だったようだ。
カナダで親が学校にこのような宣言をして話題になるのは初めてではない。ほかの国でも、忘れた頃にぽつりぽつりと似たような出来事が起こっている。日本人にとってはごく当たり前の宿題だが、一体何が問題なのだろうか。
◆150年前から続く議論
実は宿題の是非は古今東西を問わず、長年議論されてきた問題である。カナダのCBCによると、過去30年間に、北アメリカだけで宿題に関する学術論文が千本以上発表されている。カーネギー・メロン大学の、宿題の歴史に詳しい歴史学者スティーブン・シュロスマン教授の発見した文献によると、宿題の是非を問う議論の始まりは150年前にも遡るという。19世紀末の、まだ誰もが学校教育を受けられなかった時代は1日2時間ほどの宿題が当たり前だったのが、20世紀に入ると宿題は「子供時代に対する罪」「合法の幼児虐待」などという考えが台頭した。
フランスでは2013年、オランド大統領が教育改革の一環として宿題廃止を提言した。(それ以前から宿題を禁ずる法律があったようだが、現場で教師たちが独断で出していたようだ)。それを受けてドイツの一部の州でも宿題禁止が検討され始めたが、今のところ大きな変化はきこえてこない。
◆専門家の考える「理想の宿題」
デューク大学の心理学・神経科学者のハリス・クーパー教授は「宿題は処方箋薬剤のようなものだ。飲むのが少なすぎれば、効かない。飲みすぎると死んでしまう」と言う。適量が大切ということだ。また、ミシシッピ州立大学の教育心理学者ジアンジョン・シュー教授は「宿題は個人の責任を教える重要な方法だ」と述べている(CBC)。
教育に関する話題で何かと注目されるフィンランドだが、教育コンサルタントのパシ・サルバーグ氏は、子供のことを考えて出される宿題のみ効果的であると言う。ドリルやプリントではなく、子供の学ぶ意欲を促進するようなものを教師が注意深く選ぶべきとしている。結局は同氏が述べるように「宿題を、良いか悪いかの二者択一で語るべきではない」(CBC)ということなのだろう。
◆カナダとドイツの宿題
筆者の経験から、欧米で宿題批判の声が上がる背景を考えてみたい。筆者の子供たちはカナダのオンタリオ州で、幼稚園から2年生(8歳)まで公立学校に通った。学年も低いし、州も違うので単純に比べられないが、宿題が多いと思った記憶はないので、冒頭のニュースを聞いたときは意外だった。プリントで延々とドリルをやらせるようなものではなく、たとえば「ファミリーツリー(家族の系図)を作る」というような、親子でできるプロジェクトベースのものが多かったと記憶している。あとは読書の宿題が多かった。毎日ではなく、出る曜日が決まっていたので、親にも把握しやすかった。
現在、子供たちはドイツのバイエルン州で私立中学に通っている。全日制で、勉強は学校で済ませるべきとの方針なので、宿題はない。家庭学習も奨励されていない。長男は一時公立のギムナジウム(中等教育機関)に通っていたが、学校のやり方に合わず、親子ともども大変なストレスとなったので、やむをえずやめさせた。小学校も合わなかった。極端な話、教師が親に教育を任せすぎではないかと思うことさえあった。そういう印象を受けたのは、宿題が学校で習ったことの復習だけではなくて、親が教えてやらなければできない新規事項を含んでいることがあったからだ。もちろん、これは学校や教師によるところも大きいだろう。
州にもよるが、授業はほぼ午前中で終わり、年間15週も休みがある上に2、3週間は必ず病欠する教師たちが、その仕事の一部を親に負担させている、という気がして納得がいかなかった。(ただし、時間的な分量では30分~1時間というところで、長期休暇には宿題が出ない点は明記しておく)
6 年生になると英語に続く第二外国語を選ぶことになるが、それはたいていフランス語かラテン語で、母親が自分の履修したものと同じものを子供に選ばせる傾向がある。そうでないと、宿題の助けができないからだ。「助け」というと聞こえはいいが、実際には親が宿題をやってしまう場合も少なくない。筆者の年代の日本人はたいていそうなのではないかと思うが、親に宿題を手伝ってもらったことなどないし、そんなことをしても子供のためになるとは思えない 。
◆親の助けを必要とする宿題に思うこと
ドイツには、全体主義国家に教育を任せすぎたために子供たちを洗脳されてしまった経緯があるので、国に教育を任せすぎるのを警戒する傾向がある。それ自体は理解できるし、いいことだとは思う。ただ、最初から親に手伝わせるのを前提にしたような宿題には賛同できない。三者面談でも、それまで父親と母親両方に向かって話していた教師が、宿題となるといきなり母親だけに向かって話し始める。宿題は母親の責任というわけだ(ドイツには意外と専業主婦が多い)。
親に宿題を任せるというのは、ドイツやフランスのように移民の家族を多数抱える国家においては、危険だし、そもそも不公平だ。両親が働いている場合もそうだし、とくに女性の社会進出を促しながらこれでは矛盾している。「公」と「私」をきっちりわけたがるヨーロッパ的考えからしても、学校でやるべきことを家庭に持ち込むのはやはり撞着しているように思われる。カナダで宿題放棄宣言をした親に多くの賛同が集まったのも、働いている母親が多いうえに、家族の時間がなくなるというのがおもな理由だったようだ。宿題の量もさることながら、このような親に負担を強いる形態も見直す必要があるのではないだろうか。
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