追悼・『李香蘭』山口淑子氏 プロパガンダ映画出演の過去も、中国紙は長年の友好活動に着目

 李香蘭として知られる山口淑子さんが今月7日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。94歳だった。戦前、戦中は中国人として、戦後は日本人として映画に出演し、人気を博した。晩年は、中国をはじめアジア諸国と日本の関係改善に尽力した。

 海外各紙は山口氏の人生を振り返る記事を掲載している。

【『李香蘭』誕生】
 山口氏は、1920年2月12日、満州で生まれた。親しくなった家族同士の子は、お互いに名目上の養子にするという現地の習慣から、父親と親交のあった中国人将校の養子となった。そこで李香蘭と名付けられた。

 中国紙チャイナ・デイリー(英語版)によると、その頃、地元ラジオ局が、楽譜が読めて、日本語を話せる中国人少女の募集をしており、日本人であることを除けば、条件に当てはまるのは彼女だけだった。彼女は完璧な中国語を話したので問題がなかった。こうして、李香蘭という名で公に姿を現すようになった。

【プロパガンダ映画出演で手にした名声と代償】
 その後、日本の国策をあおるプロパガンダ映画を作るために、日本は満州映画協会を設立。山口氏は、1938年に中国人女優として映画デビューしたが、日本人であることは極秘とされた。中国人女性が船乗りや兵士、愛国者といった日本人男性と恋に落ちるロマンス調のプロパガンダ映画に多く出演し、中国だけでなく台湾や韓国、日本で人気を博した。

 その一方で、日中両国で批判にさらされたとチャイナ・デイリーは伝えている。1940年に公開された映画「支那の夜」では、日本男性に不当に扱われたにもかかわらず、その男性と恋に落ちる中国人女性を演じたため、中国人女性の価値を落としたとして、中国で非難されたという。また、日本へのツアーでは、中国人そのもので、下層階級のようだと嘲笑われたという。山口氏は、回顧録で当時のことを振り返り、同胞が自分の出生国を侮辱するのが悲しかった、と記している。

【山口淑子として戦後を歩む】
 終戦を迎えると山口氏は、反逆罪に問われ中国政府に逮捕されたが、友人の助けで日本から戸籍謄本を取り寄せ、日本人であることを証明した。これにより罪に問われることなく釈放され、日本に帰国。その後は、ハリウッド映画やブロードウェイのミュージカルに出演し、日本でも黒沢明監督の作品に出演するなどしたが、1958年に外交官の大鷹弘氏と結婚。それを機に映画界を引退した。その後は、テレビ番組で司会やキャスターを務めた。1974年に参院議員に初当選し、国会議員をおよそ20年間務めた。

【日中の友好関係を望んで】
 山口氏は日本と中国、アジア諸国との友好的な関係を望んでいた、と海外各紙は報じている。チャイナ・デイリーは、「若さと経験不足」に因るものだったとしながらもプロパガンダ映画に関わったことについて謝罪の意を表していたこと、祖国である日本と母国である中国が友好的な関係になってほしいという願いを口にしていたことを伝えている。また、ワシントン・ポスト紙も、中国は「母国」であり、日本は「先祖の国」という理解をもって成長した、という山口氏の談話を掲載している。

 山口氏は、従軍慰安婦のために女性のためのアジア平和国民基金を設立するなど、周辺のアジア諸国との関係改善に力を注いでいた。日中関係が冷え切った今日でも、中国のチャイナ・デイリーにさえ、山口氏を批判するような論調が見受けられないのは、山口氏の尽力の賜物なのだろう。

李香蘭 私の半生 [amazon]

Text by NewSphere 編集部