「人間そっくりロボット」の不気味さを乗り越えられるか? 研究者の挑戦とは

 1970年、世界的なロボット工学者の森政弘氏が、ある仮説を唱えた。題して「不気味の谷」。

 森氏によれば、ロボットの外観や動作が、より「人間らしく」なるにつれて、人が抱く好感と共感は増していく。ところが、その気持ちは、ある時点で突然強い嫌悪感へと変わるという。そして、ロボットの「人間らしさ」がさらに強まり、外見や動作が人間と見分けがつかないレベルに達すると、嫌悪感は再び好感に転じ、人間と同じような親近感を覚えるようになる。

 このような、「人間にきわめて近い」ロボットと、「人間と全く同じ」ロボットのそれぞれに対して抱く嫌悪感の差を「不気味の谷」と呼ぶ。

 当時、この仮説が掲載されたのは、学会誌ではなかった。そもそも、研究に基づく「論文」ですらなく、エッソ・スタンダード石油の会報誌である「Energy(エナジー)」誌が「ロボットの技術と思想」というタイトルで特集を組むにあたって依頼した原稿—-いわば、「エッセイ」だった。

【ファイナル・ファンタジーがきっかけで業界の「常識」に】
 当初、見過ごされ、反響も無きに等しかったというこの理論が脚光を浴びたきっかけは、2001年に封切られた映画、「ファイナル・ファンタジー」だったという。ゲームから発展したこの映画は、「人間にきわめて近い」CGを駆使した映像が高い前評判を呼んだ。

 しかし、結果は大コケ。コロンビア・ピクチャーズに5200万ドルの損失を負わせた「敗因」は、著名なアメリカの映画評論家、ピーター・トラヴァース氏をして「最初は、キャラクターを見ているのが楽しいが、じきに、目の冷たさ、動きのぎこちなさが気になってくる」と言わしめた「嫌悪感」だったという。すなわち「不気味の谷」だ。

 これをきっかけに、1978年にジャシア・ライチャートが『ロボット:事実とフィクションと未来予測』(仮題)で紹介していた“Uncanny Vally(不気味の谷)”理論は、ロボット工学界や映画界での暗黙の了解に—-常識になった。つまり、「ロボットは人間に近づけすぎるな」「アニメはほどよくデフォルメすべきだ」というわけだ。

 しかし今、この理論に挑む工学者たちが続々と名乗りを上げていると、BBCは伝えている。

【“谷”は本当に存在するのか】
「不気味の谷」理論そのものに反旗を翻す第一人者には、アメリカ人のロボット工学者デビット・ハンソン氏がいる。ハンソン博士は、不気味の谷のセオリーはしょせんエッセイであり、「似非科学的」だと批判。ロボット作りに関わる人は、科学的証明がないセオリーで自分たちの手を縛るべきでないと主張している。

 同氏は、ディズニーのアニメ『アラジン』のジャスミン姫が、原画から女優のジェニファー・ラブ・ヒューイットに変化していく「明らかにアニメ」から「明らかに人」への過程を6枚に分けて多くの人に見せ、検証を行っている。どの画像を見たどの人も「不気味さ」を感じてはいなかったという。この結果を裏付ける別の研究も存在しているようだ。

 しかし、だからといって、即「不気味の谷はない」と断じるわけにもいかない。エドワード・シュナイダーが行った、ハロー・キティ、ミッキーマウス、スヌーピーなど、既存の有名キャラを「実物」に近づけていく同種の研究を始め、まさに、「不気味の谷」を裏付ける研究結果も複数報告されているからだ。

【人に「不気味さ」を感じさせるファクター】
 そもそも「不気味さ」を感じさせるファクターとはなんなのか。記事では3つの可能性を検証している。

 第1に、たとえば、ゾンビや、サイボーグなどと同じように、視覚的に「気持ち悪く」「人ならざる者」であることを感知させられること。

 第2に、見た目と動きのアンバランス。いかにも「人」と見えるものが、「人ならざる」動きをすると、正体不明の不気味さが喚起されるという理屈だ。

 第3に、対象に「人ならざる」何かを感じると、人は本能的に、「不具合」→「正常ではない」→「病気かもしれない」→「感染するかもしれない」という恐怖心を抱くのではないかという可能性。進化の過程で人間と同じプレッシャーを乗り越えてきたとみられるアカゲザルにこの種の行動がみられるという研究もあるようだ。

【「谷」を突き抜けろ! 乗り越えろ!】
 さらに、森氏の弟子にあたる石黒浩氏は、「不気味の谷」の理論を覆すのではなく、その谷の向こうに駆け抜けようという気鋭のロボット工学者だ。

 同氏は認知科学や脳科学も駆使し、自分を始めとするモデルに限りなく近い、「人間と見分けのつかない」精巧なロボット(アンドロイド)の開発に取り組んでいる。女性型アンドロイドは、見学に来た男性の研究者が、同行する妻に「この女性に触っても構わないかい?」と了承を求めるレベルにまで達していると記事は伝えている。

【不気味さはどこまでも?】
「不気味さ」とは要するに、「印象」と「実態」の微妙なずれが生じさせるものなのかもしれないとBBCは分析している。そうであれば、トイ・ストーリーやアバターなど、ファイナル・ファンタジーが封切られた2001年と比べても、はるかにCGに慣れた現代人にとっての「不気味の谷」はすでに変容しているはずだ。

 しかし、数十年後、まるで人間と見分けのつかない「ロボット」と、何の違和感もなく付き合っていたとしよう。それが、何らかの事故で、故障して、内部の機械がむき出しになったら――それこそ喚起される「不気味さ」は計り知れないのではないか・・・。

 結局、人間が持つ「不気味」の感覚は、どこまでいってもつきまとうものなのかもしれない。だからこそ、「不気味の谷」理論が、いつまでも風化しないのかもしれない。

Text by NewSphere 編集部