イタリア最南端の島で今起きていること…映画『海は燃えている』が映す難民危機の現実

「資料映像と物語とを混合しながらドキュメンタリー映画の新たな可能性について考えさせる、想像力に富み、現代を生きる私たちに必要な映画」

 第66回ベルリン国際映画祭の審査委員長をつとめた女優メリル・ストリープが金熊賞を受賞した『海は燃えている』をそのように賞賛した。同賞の他、ヨーロッパ映画賞のドキュメンタリー賞、イタリア・ゴールデングローブ賞大賞、国際ドキュメンタリー協会賞撮影賞など、数多くの賞を獲得し、さらに第89回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされたこの傑作が2月11日から日本で公開される。

◆移民・難民の玄関口、ランペドゥーザ島の現在
 ジャンフランコ・ロージ監督の『海は燃えている』は、ランペドゥーザ島における難民危機を語る映画だ。その島に12歳の少年サムエレが住んでいる。彼が友だちと遊び、他の島の人々と同じようにどこにでもある日常生活を送っている。しかし、この島はもう一つの顔をもっている。イタリアの最南端にあるランペドゥーザ島はシチリア島よりもチュニジアに近い場所にある。そのため、有名なリゾート地であったランペドゥーザ島は現在、命をかけて地中海を渡るアフリカや中東からの移民・難民の玄関口として知られるようになった。島の人口は約5,500人であるのに対し、島へやってきている移民・難民の数は5万人を超えると言われている。

 『海は燃えている』は移民・難民を救助する様子や島の人たちの日常生活を映しながらランペドゥーザ島の現在を語る。この映画を撮るためにロージ監督はランペドゥーザ島に移り住み、島の人々と暮らしながらその「真の姿」を描き出した。『海は燃えている』の登場人物は、漁師たちとその家族、特に少年サムエレ、そして島に辿り着いた移民・難民である。島の人々と移民・難民を結ぶ唯一の存在として、同島に暮らすたったひとりの医師が登場する。

◆「非日常」と「日常」との境界の曖昧さ
 本作の『海は燃えている(原題:Fuocoammare)』のタイトルは、第二次世界大戦時代に作られたシチリア島の伝統曲「炎の海(Fuocoammare)」と関連する。1943年のある夜にランペドゥーザ島の港に停泊していたイタリアの軍艦が連合軍に爆撃され、暗闇の海が真っ赤に燃え上がったという話が由来だ。

 ガーディアン紙が明らかにしているように、このタイトルが「非日常」と「日常」との境界の曖昧さを表していると思われる。つまり、「炎の海」が作られた当時、「非日常」であるはずの戦争が「日常」の一部となっていたのと同様に、現在の移民・難民危機という「非日常」がランペドゥーザ島の「新たな日常」となっている、というメッセージが『海は燃えている』というタイトルに込められているのである。

 また、ランペドゥーザ島の非日常に慣れてしまうという残酷さが、片目が弱視である少年サムエレの人物を通じても語られている。伊イル・マニフェスト紙が指摘するように、サムエルの弱視が目の前に起こる悲劇に慣れ、見えない振りするという立場を象徴していると解釈できる。しかし、ロージ監督は決してモラリストではない。むしろ彼が道徳的緊張を探りながら今まで誰も語っていなかった移民・難民の真相を証言してくれた、とイル・マニフェスト紙のクリスティーナ・プッチーノ氏は言う。

◆期待を上回るドキュメンタリー映画
 ロージ監督は観客の涙を誘わず、現実を見つめ、語り続ける必要性を訴えているといえるだろう。ニューヨーク・タイムズ紙が指摘しているように、今日のドキュメンタリー映画は観客の良識に訴えることに留まってしまうものが多い。このような映画が世界の貧困や紛争といった問題に対して関心を高める行為自体がその問題の解決になるかのように作られており、型にはまったものがほとんどだという。

 しかし、ロージ監督はマンネリ化の罠にはまらず、ヨーロッパを目指して地中海を渡る移民・難民の事情をメロドラマのようには描かない。彼がただ正確にランペドゥーザ島の現在を観察し、そのまま観客に語るのだ。その意味では観客の期待を大いに上回る映画だとニューヨーク・タイムズ紙の批評記事を書いたスコット氏は言う。

 日本では難民危機は日常からかけ離れた物事のように感じる人が少なくないだろう。しかし、現代を生きる人間である上にその現実から目を背けず、難民問題について話し続ける義務があるのではないだろうか。テレビニュースよりも如実に難民危機を語ると言われている『海は燃えている』がその機会を与えてくれるのだ。

Text by グアリーニ・レティツィア