コヨ・クオが残した言葉とその軌跡 アフリカ現代美術界の旗手急逝
コヨ・クオ|©Marco Longari
アフリカ現代美術業界を代表するキュレーターの1人である、カメルーン出身のコヨ・クオ(Koyo Kouoh)が5月10日に逝去した。57歳だった。報道によると、彼女は少し前にがんと診断され、治療中であった。昨年末には、1年後に開幕予定の第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の芸術監督(ヴィジュアル・アート部門ディレクター/キュレーター)に任命されており、さらなる活躍が期待されるなかでの急逝に、業界には衝撃と深い悲しみが広がった。
以下、彼女の言葉とともにその軌跡を振り返る。
「ほぼ全員が女性という家庭環境で生まれ育った」(TheMerode、2025年2月)
クオは、カメルーンの最大都市であるドゥアラ出身。曽祖母、祖母、母など強い女性たちに囲まれ、男性の存在感はほぼ皆無という家庭環境で育ったことが、自身のアイデンティティやジェンダー観に大きな影響を与えていると語る。
10代の初めに母親と暮らすためにスイスのチューリッヒに移住。銀行業とビジネスを学び、投資銀行のクレディ・スイスに就職した。社会人初期に経営を学んだことが、のちの起業やエグゼクティブ・ディレクターといったポジションでの活躍につながっている。
「芸術がもたらす可能性の空間にひかれた」(TheMerode)
チューリッヒでのサラリーマン生活は、ある意味、退屈なものだったが、パフォーマンス・アーティスト・デュオのドミニク・ルースト(Dominique Rust)とクラリッサ・ヘルプスト(Clarissa Herbst)との出会いをきっかけに、クオの芸術や文化への関心が広がった。彼女がアートにひかれた理由は、ほかのいかなる業種にもない、アートだけが持つ無限の可能性―提起や想像の自由さ―にあったという。
「私たちの仕事は、新しい人々を芸術に取り込むこと」(The Art World: What If…?!、2024年3月)
クオが過ごした80年代のチューリッヒは何かと規制が多かったそうだが、クリエイティブ精神を持った仲間たちと出会い、コミュニティを盛り上げていった。バーやレストランの閉店時間が早いということにも異議を唱え、クオと仲間たちは最終的にバーやレストランの深夜営業を認めるという法改正にも寄与した。
彼女のアート界でのキャリア展開は、チューリッヒでのアーティストとの出会いやクリエイティブコミュニティとのつながりという体験の延長線上にある。人とのつながりを作り、アートの世界に新しい人を巻き込んでいくこと。展示キュレーターの仕事は、作品を紹介し、仲介者としての役割を果たすだけでなく、新しい人々をアートの領域に巻き込んでいくことであると語る。
「実はアート作品はあまり好きじゃない。好きなのはアートをつくる人」(TheMerode)
ファイナンスからクリエイティブ業界へと関心をシフトさせ、文化メディアのライターなども務めていたクオは、1995年10月、取材のためにセネガルのダカールを訪問した。そこで出会ったセネガル人アーティスト、イッサ・サンブ(Issa Samb)は、彼女のキャリアに生涯にわたって影響を与える存在となった。本来の取材対象に無視され、途方に暮れていたクオを、サンブは自身のアトリエに温かく迎え入れた。彼女は、来訪者とのやりとりを含むサンブの在り方に感銘を受け、数ヶ月後にはダカールに移住。現代アフリカン・アートの領域でキャリアを本格的にスタートさせた。

コヨ・クオ|©Emeka Okereke
サンブは、パフォーマンスアート、執筆、インスタレーション、絵画、彫刻など多岐にわたる表現活動で知られるアーティストだが、クオが見出した価値の本質は、人とのつながり、すなわち「人を中心としたアート」だ。「アートは人生の延長線上にあるもの」と語る。作品よりも人を大切にするこの姿勢は、ダカールで立ち上げたアート教育・対話・実践・展示の場「ロー・マテリアル・カンパニー(Raw Material Company)」をはじめとする、彼女のその後の活動の根幹となった。
「キュレーターは、助産のようなもの」(フィナンシャル・タイムズ、2025年5月)
2019年、アフリカを代表する現代美術館、ツァイツ・アフリカ現代美術館(Zeitz MOCAA)のエグゼクティブ・ディレクター兼チーフ・キュレーターに就任し、その拠点をダカールからケープタウンに移した。前任者の不祥事を受けての美術館経営の建て直しや、新型コロナのパンデミック期間中における運営といった困難もあったなか、「汎アフリカ」を代表する美術館としての存在感を高めていった。
別の人生では助産婦になっていただろうというクオは、キュレーターという職業も助産に似ていると話す。また、自分はキュレーターというよりも、アーティストに「仕える者」であると認識しているとも語った。アーティストと時間をともにするなかで彼らの意図を汲み取り、それを「解釈・翻訳する」という考えのもと、アーティスト支援を行ってきた。
「私たちは、自らの歴史の書き手とならねばならない」(Afrique Magazine、2025年2月)
1980年代のスイスという白人社会のなかで過ごし、黒人文学の代表的な作家の一人であるトニ・モリスンの文学に勇気づけられたというクオ。欧州にとどまろうという考えはなく、アフリカ大陸に戻るという選択肢は自然なものだったという。
クオは汎アフリカ主義を信じていた人物であり、Zeitz MOCAAにおいてもその考えが核を成していた。彼女が定義する汎アフリカ主義とは、アフリカ人であること、黒人であること、そしてその共通体験が持つ力を理解するということだ。
アフリカの歴史、黒人の歴史は、とりわけ美術史に関しては、当事者ではない人々によって描かれてきた。その歴史をすべて否定するわけではないが、アフリカ人が主体性を持って文化を語り継いでいく必要がある。それはクオのキャリアにおける大きなコミットメントであった。
クオの訃報を受け、直接交流のあった数多くのアフリカ系アート関係者やクリエイターたちが、悲しみと敬意の言葉をSNSに投稿していた。彼らは、これからもクオの想いを未来へとつなげていく存在となるはずだ。