現代を映す暗殺オペラ『仮面舞踏会』 主演歌手が見る母国アメリカ、芸術、日本
オペラ『仮面舞踏会』|© Herwig Prammer
昨年起きたドナルド・トランプ次期米大統領の暗殺未遂事件は、アメリカの歴史が繰り返されている証明となった。実際に起こった暗殺事件を題材にしたオペラを通して、暗殺される主役を演じるアメリカ人テノールは、そんな世界をどう見ているのだろうか。
◆史実に基づいた暗殺オペラ『仮面舞踏会』
1792年、ストックホルムの歌劇場で催された仮面舞踏会でスウェーデン国王グスタフ3世が暗殺された。それがフランスで戯曲化され、その後、イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディがオペラに仕立てたが、「国王暗殺物語」が当局の検閲に引っかかったため、舞台をイギリス植民地時代のアメリカに移し、スウェーデン国王はボストン総督リッカルドに換えられた。そうして誕生したオペラ『仮面舞踏会』は、ヴェルディが音楽で描写する臨場感でスリリングに進んでいく。そして甘いメロディは悲劇を忘れて聴く者を酔わせるが、幕切れに暗殺は容赦なく決行される。
スイス・チューリッヒ歌劇場で成功裡に10回の全公演を終了したアデーレ・トーマス演出の『仮面舞踏会』は、時代設定をヴェルディが活躍した時代のボストンに移したが、当時から今も続くアメリカの問題として、銃問題、人種差別、アルコールや麻薬の依存を描き出した。その演出から政界の茶番劇への皮肉を読み取り、「ヴェルディの『仮面舞踏会』にはトランプは不要だ」と題した記事で、「今では珍しい伝統的演出で、現在起こっている出来事を観客に想起させた」と評する記者もいる。

オペラ『仮面舞踏会』|© Herwig Prammer
その主役を演じるアメリカ人テノールのチャールズ・カストロノーヴォに、暗殺、アメリカ、芸術、そして現在の世界について聞いた。
◆オペラで提起するアメリカの問題
――リッカルド役を作り上げるうえで、スウェーデン国王暗殺事件の背景なども学んだのですか?
「たとえばゲーテやシラーの物語がベースになっている役を勉強する時は、それらの本を読んだりしますが、このオペラは音楽的にひかれて16歳の頃からいつか歌いたいと思っていた役なので、自分の中ですでに描いたリッカルド像がありました。自分の声がその役を歌うために十分成熟した時、初めてオファーを受けるようにしているので、2年前にミュンヘンでようやく役デビューできた時は、台本のみを読み込みました。その時の演出はシンボル的で美しい仕上がりでしたが、今回の演出は暗殺が起こり得る状況が細かく表現されています。1881年に起こったガーフィールド大統領暗殺事件を大きく報道する新聞紙の一面が小道具に使われるなど、暗殺の機運が高まっていたことを示しています」
――演出家のトーマスさんは「リッカルドはリンカーン側について南北戦争を戦った」と想定していますが、そのリンカーンも暗殺され、ガーフィールドが撃たれたばかり。でも、リッカルド自身を脅かす危険には無頓着だったのですね?
「僕には、リッカルドはたとえば『アメリカで健康保険に入っていない人』のような性格に思えます。自分は健康だから、保険を使う状況にはならない、と決めつけているような……。また、彼は総督に選ばれたばかりで、政界のどす黒さが見えていなかったこともあるでしょう。自分は有権者に愛されているから自分の理想を貫けば大丈夫、などと楽観視していたのだと思います」

ガーフィールド大統領暗殺事件|A. Berghaus and C. Upham, published in Frank Leslie’s Illustrated Newspaper. / Wikimedia Commons
――そんな理想主義で果敢な性質を、トーマスさんはジョン・F・ケネディになぞらえていますね。
「その通り、理想主義ですべてが可能だと思うところがケネディに似ています。政治家としてのキャリアが浅いうちはそういう傾向がありますね」

ジョン・F・ケネディ大統領|Ralf Liebhold / Shutterstock.com
――このオペラで描かれている約150年前のアメリカと現在のアメリカはどう変化したでしょうか?
「あの時代は、右派と左派がより明確に分かれていて、人々は『正しい道』を探していました。今は、万人に『正しい道』などないと分かってきていますね。この演出で描かれているアメリカの3大問題は、よりひどくなっていると言えるでしょう。それは情報などにアクセスしやすく、拡散しやすいからでしょう。そして銃の問題は皆さんもご存知の通りの惨状です」
――これだけ時代が進んでも、トランプ氏が撃たれたりするのですからね。
「あれは今ドイツに住んでいる僕にもショックでした。僕は暴力に訴えるすべての人間が嫌いです。結局僕たちは何も学んでいないということですね」

トランプ氏銃撃事件を報じる新聞|rblfmr / Shutterstock.com
◆アーティストにできること
――実際に舞台上で暗殺されてみて、どんな気持ちですか?
「僕は舞台上で死ぬのが大好きです(笑)。可能な限り、痛みや苦しみも演技で表現できるように目指しています。撃たれた後にまだ歌わなければならない矛盾をカバーできるよう、演劇的解決策を考えて演じています。芸術はどの分野でも、人々に表現して見せることしかできない、見る者を特定の方向に導くべきではないと思っています。今の時代、映画俳優が政治的意見を述べたり、有名人が誰に投票すべきか公言する風潮がありますが、彼らがどういう政治的立場を取るのかは僕には興味はなく、強制されるものでもないと思います。ただ表現して、観客が自由に受け取ればいい、それがアーティストにできることです」

チャールズ・カストロノーヴォ氏
――現在アメリカを離れているあなたから見て、アメリカという国はどうですか?
「もちろん祖国ですから好きですが、僕の場合は、現在オペラ歌手としての仕事の95%をヨーロッパで歌っているので、アメリカとの間を往復するロスなどを考えた末の移住でもありました。しかし、ヨーロッパは国によって多種多様で、アノニム(匿名)でいられる感じがします。父がイタリア人ということもあるでしょうが、自分はヨーロッパ人だと感じます。ヨーロッパではアメリカよりシンプルでいられます」
――そうやって世界を見たあなたの意見として、日本はどのように進んでいけばよいでしょうか?
「人は過去にとらわれず、未来を見て進んでいくべきだとは思いますが、過去に持っていた精神性を思い出してみるのは有効だと思います。現在の私たちは、必要な物をすべて手に入れることに慣れ過ぎています。今ほどすべてを持っていなかった時代に戻れるよう、個人的に努力しています」
「父は16歳でシチリアを出ましたが、それは十分な仕事がなく、自分の将来の子供たちには自分より良い世界を与えてあげたかったからです。そして母と出会い、長男の僕がアメリカで生まれたわけですけれど、彼が持っていた家族関係や伝統は、現在のアメリカでは失われてしまっている部分があるのです。僕も息子たちにより良い世界を望んでおり、それが僕の場合はアメリカではなく、ヨーロッパに移住した理由でもあります」
「たった2、30年前でもいいので、昔を思い出してみて下さい。スマートフォンもなかった時代は、ストレスも恐れも今より少なかったのです。以前は肉体労働がハードだったかもしれませんが、現在は精神的健康を保つのがハードな時代です」
「そういう点で、日本はうまくやっていけるのではないかと思います。まだそれほど日本のことを知りませんが、2026年の来日公演のために興味を持って調べ始めてみると、最新技術と昔ながらの精神がうまく共生できている国だと感じます。その昔の精神を失わないで下さい」

チャールズ・カストロノーヴォ氏
まさしく「昔の精神」を忘れないためにも、クラシック音楽、そしてオペラ鑑賞は意義があるのではないだろうか。文学も絵画も、すべての芸術は、私たちに人間らしい情緒を思い出させるためにあるのだ。
在外ジャーナリスト協会会員 中東生取材
※本記事は在外ジャーナリスト協会の協力により作成しています。