「世界の小澤」が私たちに遺してくれたこと

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◆スイスの小澤征爾
 とはいえ、実は小澤氏について掘り下げて書けるほどの時間を共有したわけではない。たった1度インタビューをして、アカデミーを見学し、コンサートを聴いただけだが、その1日の濃さといったら、15年たった今でも宝物のような思い出だ。

 2009年6月25日、スイス国際アカデミー(IMA、現在は小澤の名を冠している)に、「音楽の友」誌の編集長とともに小澤氏を訪ねた。彼は6月13日にパリでヘルニアの緊急手術を受けた直後だったが、1週間の療養後、「指揮は1時間」という制限付きでスイスにやって来たのだった。それなのに、ふわっと、あまりにも自然な態度で「世界のマエストロ」は人との間に隔たりを作らなかった。そして独特の小澤節で、2005年にスイスで始まったアカデミーのこと、自身の「若気の至り」についても、飄々(ひょうひょう)と語ってくれた。その濃い1時間半が忘れられない。(詳しくは「音楽の友」誌2009年8月号(記事1記事2)と10月号に掲載)

 一通り話し終わったタイミングで「ちょっと失礼」と洗面所に立った小澤さんは、そのままふわっと誰かに呼び止められ、インタビューが終わってしまった。昼食を皆でともにしてから、室内楽の練習部屋を回り始めると、子供のような無邪気な好奇心で音楽の中に入り込んでしまい、もう手が届かなくなった。

 その1年後には食道がんで活動を休止し、その後復帰するも、個人的再会の機会は訪れないまま、今度は本当に手の届かない所に行ってしまった。

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◆西洋のクラシック音楽界
 ヨーロッパにいると、東洋人がなかなか入りにくい世界が立ちはだかることがある。上流社会の庇護の下に発展したクラシック音楽界もその一つだ。しかしそこに、果敢に切り込んだ小澤征爾の存在が後に続く私たちの道標になっていたことを、失って改めて強く実感した。

 そんな想いを抱きながら「音楽の友」誌の依頼で著名人からの追悼コメントを集めていると、今では有名な指揮者となったケント・ナガノ氏がアメリカでの小澤氏の存在意義を話してくれた内容と合致した。

「祖父母と両親が第二次世界大戦で家を没収されたこともあり、当時の自分の中には日本人であるというコンプレックスがありました。でも、小澤さんがサンフランシスコ交響楽団に来てから、誇らしげな祖母をはじめ、皆に尊敬されている彼の存在を目の当たりにし、『これだけハイレベルになれば、国籍など関係ないんだ』というロールモデルになってくれたのです。彼は確かに、アメリカにおいて日本のポジションを上げてくれたパイオニアでした。そして私が今まで感じていた制限から解き放ってくれて、心に平和が訪れました」

 まさしく、アメリカでもヨーロッパでも音楽を通し、国籍や人種の垣根を取っ払う偉業を遂げた人だった。それゆえに「世界の小澤」と呼ばれているのだと、亡くなって初めて実感した。

Text by 中 東生