映画『さようなら、コダクローム』レビュー Netflix配信、内容の皮肉にも?

Christos Kalohoridis / Netflix via AP

 ジェイソン・サダイキス、エリザベス・オルセン、そしてエド・ハリスが演じる定番の人間模様を描いた心温まる新作「さようなら、コダクローム」は、キャラクターたちがアナログに魅了されたロードトリップ映画だ。音楽を楽しむには、レコード盤に針を置くのが一番。目的地を探すなら、Siriに尋ねる代わりに、自分で地図を見る。写真といえば、フィルムカメラで撮影するアナログ写真。そして何十年も重ねた不義理の償いをするのなら、iPhoneのFaceTimeは使わず、相手に面と向かって話をするほうがいい。

 そう考えると、観客が映画「さようなら、コダクローム」を楽しむことができるのは最終的にネットフリックスだけである、というのは、少し違和感がある、というものだ。ネットフリックス社は昨秋、トロント国際映画祭2017に公式招待された独立系の作品を買い取り、4月20日に同社の顧客に向けてネット上でストリーミング配信を開始した。映画がネット配信で観られる、ということは、可能な限り多くの視聴者が「さようなら、コダクローム」を観賞することが出来る、という意味ではあるが、コダクロームを使ったフィルム写真の終焉を描いたこの映画の配信サービス形態が、また別のフィルム、すなわちフィルム映画の上映形態の終焉を意味する、といった皮肉も含まれているように思う。

 ハリス演じる著名な報道写真家は、忘れられたままになっていた古いコダクロームフィルムを現像に出したいと願うが、残された時間は多くない。ハリスが切々と語る「実物に勝るものなど無い」、そして、デジタル写真は基本的にただの「電子のゴミ」であるというモノローグが観る者の心を打つ。彼の役柄がデジタル映画やストリーミングサービスの話題に踏み込んで描かれているわけではないが、ハリス演じる写真家の心の底からのモノローグによって、映画そのもののこれからの在り方について様々な思いを巡らさずにはいられない。

左からジェイソン・サダイキス、エリザベス・オルセン、エド・ハリス(Christos Kalohoridis / Netflix via AP)

 とにかく、映画の見た目は古典的でも「アナログ的」でもない。映像は見やすく綺麗に整理され、すっきりとしていて、結局はデジタル的だ。しかし、込められた意図は甘く切ない。

 2010年、ジャーナリストのA・G・サルツバーガー氏がカンザス州に唯一残る閉鎖目前のラボ、ドウェイン写真館に関する記事を米ニューヨーク・タイムズ紙に掲載したことをきっかけに、未現像のコダクロームフィルムを現像してもらおうとアマチュアやプロを問わず多くの写真家が同ラボに押し掛けた。本映画はこの記事にもとづいて制作された。マーク・ラソ監督(代表作「コペンハーゲン」)がメガホンを取り、ジョナサン・トロッパー(代表作「あなたを見送る7日間」)が制作を担当した本作には利害関係とドラマがちりばめられており、(サダイキス演じる)音楽プロデューサー、マットが描かれる冒頭の楽曲であるコダクロームはポール・サイモンの楽曲のタイトルでもあるという事実に基づいた当意即妙さも加わっている。

 映画の冒頭、重要なクライアントを失ってしまい、ボスから替わりの客を見つけるよう最後の通告を受けて悶々とした日々を送るマットの姿が描かれる。マットにとって初対面の女性であるゾーイ(エリザベス・オルセン)から、彼の父であるベン(ハリス)の余命があまり長くないと聞かされた上、ベンに会って欲しい、と言われた時に、彼の気持ちはさらに鬱々としたものになる。

 マットとベンはもう10年以上口を利いておらず、それ以前にマットの母が亡くなったときにも家を不在にしがちだったベンとの関係は既に気まずく、ぎくしゃくしたものになっていた。しかし、余命の短さを知った今、ベンはマット(と、後に看護師兼世話人であると判明するゾーイ)に、ラボが閉店し自身が亡くなってしまう前に、ベンの古いフィルムを現像するためにニューヨークからカンザスまでの車での長旅に同行して欲しい、と頼む。

 マットは父の願いを不承不承ながらも聞き入れ、ベンはマットとゾーイと一緒に赤いオープンカーに乗り込み、3人の長旅が始まる。もし貴兄が似たような映画の鑑賞経験をお持ちなら、この先の展開がおそらく読めるのではないかと思うが、いかがだろうか。感情の浮き沈み、争いと和解、急に芽生えるロマンスなどが次々とアメリカ中西部のカンザスへ向けた長旅に乗せて描き出される。この旅程は、以前、幾度となくスクリーンに描き出された道のりだ。

 そして、その既視感によって今回の旅のおおまかな展開が予測できる一方で、言うまでもなく、さほど看護や介護の役を果たしているようには見えないゾーイの存在が、やや嘘っぽくて不自然な話題作りの小道具となってしまってはいるものの、才能ある俳優たちの名演技が今回の希薄な場面設定を肉盛りしており、特に最後のシーンを必見の価値があるものにしている。

 特に、サダイキスはこの並外れたドラマチックな役どころに俳優としての才能を発揮しており、彼の他の出演作である「愛とセックス」(原題、Sleeping with Other People)や「シンクロナイズドモンスター」(原題、Colossal)で観る者を魅了した深味のある演技は本作でも見どころであり、サダイキスの持ち味は健在だ。

「さようなら、コダクローム」は、決して映画業界を揺るがしたり、その将来を変えたりするものではなかったが、ネットフリックスによって5年前には想像し得なかったほど多くの視聴者が同作品を鑑賞できるようになった、という事実は、まさにコダクロームフィルムと同じ終焉の道を辿ろうとしている、名も無い数多くの小作品にとって一種の希望の兆しとなった、と言えよう。

By LINDSEY BAHR, AP
Translated by ka28310 via Conyac

Text by AP