偽ニュースの溢れる今こそ、実直なドキュメンタリーが求められている。

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著:Leshu Torchinセントアンドリュース大学 Senior Lecturer in Film Studies)

 事実が危機に瀕している。私がこの記事を書く直前には、ドナルド・トランプ大統領が、擬人化したCNNをプロレス技で組み伏せるパロディ動画をツイッタ―に投稿し、「お前たちはFNN、Fraud News Network(嘘で固めた・ニュース・ネット)だ」と宣言した。ちょうど同じ頃、ネットメディア「インフォウォーズ」では、対談番組「アレックス・ジョーンズ・ショー」のゲストが、火星上に児童奴隷コロニーが存在すると明言した

 扇動的なクリックベイト、陰謀論、主流メディアの報道や科学リポートを否定するポピュリストたち。そういったものが今、人々が世界の枠組みを理解する方法を揺るがせている。ドキュメンタリー映画の制作現場は、そこからどのような影響を受け、同時に、それにどう対抗できるのか。私が関心を寄せるのはこの点だ。このテーマは、エディンバラ国際映画祭において、私が議長を務めた業界プロたちの討論セッションの議題でもあった。

 パネリストたちは、インターネットとソーシャルメディアは問題の原因でもあり、潜在的な解決手段でもあると認識していた。これらの媒体は、偽情報の伝達速度と到達範囲を増幅する。そして人々はその手の情報を一瞥してスルーすることに慣れきっているので、本格的に問題にコミットするまでには至らない。

 長編ドキュメンタリーは、問題に対するより思慮深いコミットメントを視聴者に促す。しかしその手法が今、オンラインスペースへの適応に熱心な業界から、ある難しい課題を突き付けてられている。スコティッシュ・ドキュメンタリー・インスティテュートのソンヤ・ヘンリシ氏は、業界の重点が、もともとのストーリー重視から、可能な限りの広い配給を優先するコンテンツ・マーケティングへとシフトしている点を強調した。

 これはつまり、ソーシャルメディアで好まれ、そこで共有されやすい短時間のドキュメンタリー抜粋クリップを、スポンサーや放送局サイドが強く望むようになってきたということだ。そのような動画はそれはそれなりに魅力的だが、ソーシャルメディアの活動が、そこからより深い関わり方に繋がって行くかは不透明だ。また、偽ニュースの増大を助長する環境醸成に拍車をかけてしまう危険性もある。

 それでもなお、ドキュメンタリー自体のためにも、そういった新技術の価値を無視することはできない。NetflixからYouTubeに至るまでのプラットフォームによって、私たちが異なる意見に触れられる機会は増加した。ある討論参加者が言及したように、インドの放送局がカースト制度の最下層「ダリット」が製作した彼ら自身に関するドキュメンタリーのサポートを拒否した際、YouTubeはその作品を見たり共有したりするための受け皿となった。

ダリットに関するドキュメンタリー「アンタッチャブル・カントリー」

◆ゲートキーパー
 ドキュメンタリーの形をとった偽ニュースの代表例は、間違いなく、2016年の映画「ヴァックスト」だろう。この映画は、元胃腸科医師であるアンドリュー・ウェイクフィールド氏の指揮のもと、1998年に提起されたMMR(三種混合)ワクチンと自閉症とを結びつける信憑性の低い彼の主張を蒸し返したものだ。

 「ヴァックスト」はニューヨークのトライベッカ映画祭とロンドン中心部のカーゾンシネマで上演が予定されていたが、事前の悪評を理由にどちらも上演中止となった。一方、Amazonでは今でも同映画の視聴・購入が可能で、インターネット・プラットフォームがコンテンツの価値判断を避けたがるという、ひとつの実例になっている。

ワクチン接種に関するドキュメンタリー「ヴァックスト」

 このケースでは、潜在的に害を及ぼす可能性のあるドキュメンタリーへのアクセスの可否を決めるゲートキーパーとして、上演者、スポンサー、および配給者の役割が強く認識された。私自身は同映画の上演取り消しに賛成の立場だが、それでもなお、この一連の騒動は、パブリックに視聴可能かどうかを決定する基準に「真実」と「害」を使うということがいったい何を意味するのかという、より広い問題を喚起した。つまり、昨日まで「よし」と見なされていた知見が、今日になって「差別的だ、危険だ」と見なされることもあり得るという話だ。

 科学は、社会の偏見に根ざしている。人種科学と優生学が最もわかりやすい例だろう。他にも、長きにわたって医学の臨床試験から女性が排除されてきたという例がある。したがって、それが歴史分野であろうと科学分野であろうと、社会の定説に抗うドキュメンタリーというのは、やはり不可欠なものだ。シェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭の作品編成ディレクターを務めたルーク・ムーディー氏は、エディンバラの討論セッションの聴衆に向かって、オピニオンベースの作品を含めた様々な声を映画祭に取り込むことの必要性を強調した。

◆偽事実の歴史
 パネリストたちはまた、偽ニュースとポスト・トゥルース(政治利用される疑似真実)に関する議論は今に始まったものではないとも指摘した。あの有名な1895年の短編制作で、ルイ・リュミエール氏が工場労働者に一日の仕事を終えたつもりで工場を出るよう指示を出して以来、ドキュメンタリー制作者はフィクションとノンフィクションの境界を曖昧にしてきた。最大の演出効果を得るための実験として、リュミエール氏は同じ映画の三つのバージョンを制作した。

リュミエールのドキュメンタリー「工場の出口」

 英国メンタルヘルス・ファンデーション所属の映画監督・ドキュメンタリープロデューサー、リチャード・ワーデン氏は、1855年のクリミア戦争の写真作品「死の影の谷」に関して、同様の点を指摘した。英国の先駆的写真家であるロジャー・フェントン氏が撮影したその写真は、劇的な効果を狙って、砲弾を意図的に配置して撮影されていた。

 過去に「アルジャジーラ・イングランド」のドキュメンタリーシリーズ「ウィットネス」でコミッショニング・エディターを務めたドキュメンタリーコンサルタントのフローラ・グレゴリー氏は、自由な報道と権威主義的リーダーの間の抗争もまた、古くからあるものだと語った。一見すると、それはトランプ大統領やその他のポピュリストとともに登場した西洋社会の新事象のように見えなくもないが、全くそうではないのだ。

 オックスフォード・ディクショナリーズが「2016年の言葉」に「ポスト・トゥルース」を選んだのは、何もその言葉が斬新だったからではなく、英国のEU離脱国民投票と米国大統領選挙に関連して、その言葉の使用量が急増したからだった。

 実際に、米国のコメディアン、スティーブン・コルベア氏は、すでに2005年の段階で「トゥルーティネス(じじゅつ)」という言葉を創作していた。この言葉は、「本当の事実よりはむしろ、そちらが事実であって欲しいと人々が願ったり信じたりしたがる、より好ましいコンセプトや事象」を意味する。彼はこの言葉をイラク戦争に当てはめた。あの戦争は、偽物も、時には実に本物の効果を発揮すると知らしめてくれる実例だった。

 またパネリストたちは、ドキュメンタリーを通じてもたらされる様々な展望を議論する中で、全国ネットの放送局が視聴者の見る真実に影響を及ぼす点に言及した。受賞作「アレッポ 最後の男」の監督、ファラス・ファイヤッド氏は、シリアの子供たちに関する初期の短編観察映画が、いかに二つの放送局の異なるポリシーに沿って作られたかを語った。

シリアの子どもたちに関するドキュメンタリー「アレッポ 最後の男」

 フローラ・グレゴリー氏は、放送事業者は国家が好む見方に縛られる、と付け加えた。英国の放送局では、司会進行型のドキュメンタリーがしばしば優先され、ナレーションやインタビューを含まない難しい主題の観察映画は採用されにくい傾向にある。

 つまり、ドキュメンタリー制作における新技術を用いたチャレンジは、オンライン・エコーチェンバー(ネット上で特定の主張のみが増幅拡散していく現象)と、それを悪用しようとする公人たちによる、作品改悪の危険と隣り合わせなのだ。この状況では、実直な描写を送り届けて人々に深い省察を促すという映画制作者の義務が、さらに重くのしかかってくる。また一方で、放送局や作品上演者側も、困難なテーマへのチャレンジや、偽ニュースへの対抗実験から逃げないで欲しいと私自身は希望している。

 総じていえば、私はドキュメンタリー制作者たちが、難解なストーリーを伝えることへのコミットメントを後退させているとは見ていない。「殺人者への道」と「アレッポ 最後の男」という二つの作品が、その証明例だ。

 しかしそれでも、まさに事実こそが試されている今日、ドキュメンタリーの今後については全く何も保証されていない。責任あるドキュメンタリー制作が、今ほど重要な時代はかつてない。それが今回、エディンバラから世界にむけて叫ばれた強いメッセージだ。

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by Conyac

The Conversation

Text by The Conversation