EU残留派議員襲撃:英世論「民主主義はヘイトクライムの影響を受けてはならない」

 英国のEU離脱か残留かを問う23日の国民投票を前に、残留派の女性下院議員が男に襲われ、死亡するというショッキングな事件が起きた。被害者は、リベラル派のホープと目されていた最大野党・労働党のジョー・コックス議員(41)。イングランド北部で白昼に銃と刃物で襲撃され、搬送先の病院で死亡が確認された。間もなく逮捕された容疑者は、襲撃の際に「Britain First(英国優先)」と叫んでいたといい、EU離脱問題に絡む政治的ヘイト(憎悪)による犯行を伺わせる。事件を受け、残留派・離脱派ともに悲劇が政治利用されることを避けるため、国民投票に向けた運動や互いの批判を自粛している。

◆「Britain First」と叫びながら襲撃
 静かな田舎町を白昼に襲った悲劇だった。コックスさんは、午後1時ごろ、地元のバーストルという小さな町で、支援者との対話集会を終えて路上に出たところで襲われた。BBCは、以下のような目撃証言を集めている。

「白い帽子をかぶって上着を着た50代の男が銃を持っていた。旧式みたいに見える銃を手にしていた。女の人を一度撃って、また撃ってから、地面に倒れて、また彼女の顔のあたりを撃った」「周りにいた人たちがこの男を抑えようとして格闘していたが、男は今度はナイフを取り出して。狩猟ナイフのようなものを。それで何回も繰り返し、女の人を刺した。周りでは大勢の人が悲鳴を上げて現場から走って逃げていた」「銃を手にして一歩下がった男は、撃って、また撃って、撃ちながら地面を見下ろして、倒れた(議員を)蹴とばしていた」。この際、止めに入った70代の男性も刺され、けがをしたという。

 間もなく現場近くで警察に取り押さえられた容疑者は、地元で「トミー・メイア」という名前で知られる52歳の男。当局は動機について詳細を明らかにしていないが、目撃証言によれば、銃撃の前後に少なくとも2回は「Britain First(英国優先)」と叫んでいたという。イギリスには『Britain First』というEU離脱を支持する極右政党があるが、同党はすぐに事件への関与を否定する声明を出している。

◆直前にボブ・ゲルドフ氏と派手なパフォーマンス
 コックス議員はケンブリッジ大学卒の才媛で、慈善団体の『オックスファム』の政策責任者を務めていた。労働党議員としては、シリア支援の超党派議員団の一人で、シリアのIS拠点空爆をめぐる議決では、棄権した労働党議員5人のうちの1人だった(BBC)。EU離脱問題と大きく絡む難民問題についても、受け入れと支援に積極的な人物だと言える。メイア容疑者は、そんなコックス議員に政治思想的な憎悪を寄せていたのだろうか?コックス議員の夫、ブレンダン氏は、「私とジョーの家族・友人は生涯をかけてジョーを殺したヘイト(憎悪)と戦う」というコメントを発表している。

 英メディアの報道によれば、メイア容疑者には精神疾患の病歴があるようだ。極右思想とのつながりは捜査中だが、ガーディアン紙によれば、容疑者宅の家宅捜索で、少なくとも1つの極右団体のwebサイトへの閲覧履歴が見つかったという。また、CNNは、同容疑者が近年、アメリカを拠点にする白人至上主義団体『ナショナル・アライアンス』と、複数のネオナチ団体の出版物を購入した履歴があると報じている。さらに過去を遡ると、1980年代にアパルトヘイトを支持する団体の雑誌も買っていたというから、若いころから人種差別的な思想や極右思想に傾倒していたことが伺える。強い人種差別思想や、精神疾患と合わせた何らかの強迫観念を持っていたとすれば、それがリベラル派の旗手の1人と目されていたコックス議員を襲った要因だと考えるのが自然だ。

 また、事件前日には、ロンドンのテムズ川で、離脱派と残留派が船を浮かべ、お互いを批判しあう騒動があり、大きく報じられていた。離脱派のイギリス独立党(UKIP)のナイジェル・ファラージ党首が英国の漁民の権利を主張するために漁船団でEU離脱を訴えて出港すると、残留派のミュージシャン・政治活動家のボブ・ゲルドフ氏も船団を組んで追跡。コックス議員はこれに同乗し、ファラージ氏の船団との拡声器越しの批判合戦に参加していた。この直前の派手なパフォーマンスは、テレビやインターネットで大きく取り上げられ、メイア容疑者を刺激したのは想像に難くない。

◆英国の決定が世界経済に大きく影響か
 とはいえ、「民主主義がヘイトクライムの影響を受けることがあってはならない」というのが、両陣営、さらには英国世論の共通認識だと言える。事件後、両陣営とも国民投票に向けた運動を全て自粛し、テムズ川で展開されたような批判合戦もぱったりと止んだ。エリザベス女王をはじめ、キャメロン首相ら与野党の政治家らからも哀悼の意が相次いでいるが、事件と結びつけて離脱派を非難するような声明は今のところ見当たらず、冷静な対応が目立っている。

 事件前日の段階では、5つの世論調査で離脱派が優勢という結果が出ている。仏大手保険会社アクサのアンリ・ドカストリCEOも、離脱派勝利の確率は「極めて高い」と発言。投資家は「本格的な不透明状態」に直面するだろうと警告した(ブルームバーグ)。この発言に代表されるように、英国のEU離脱が決定的になれば、世界的な株安、そして円高が進む可能性が指摘されている。そのため、日銀も今は静観の構えだ、とウォール・ストリート・ジャーナル紙(WSJ)は報じている。

 23日の投票まであとわずか。運動自粛はいつまで続くのか。世界に多大な影響を与える国民投票なだけに、英国の有権者には、事件と投票行動を切り離して考えることが求められている。

Text by 内村 浩介