ほめられることが、高価な代償だと感じられるのはなぜか

marekuliasz / Shutterstock.com

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著:Shivani Radhakrishnan(コロンビア大学 PhD student, legal and political philosophy, epistemology and ethics)

 現代文化では「賛辞は惜しみなく!」という陽性強化がもてはやされるにもかかわらず、過度に称賛を口にする人は、相手に自然と不信感を抱かせてしまう。おそらく、彼らは人間関係の潤滑油となる言語的な手段を求めているのだろう。しかし、それが過度になると、警戒心がぬぐえなくなる。

 その理由は簡単だ。次から次へと賛辞を浴びせられることで、不誠実さや隠れた本音が露呈することがある。そして、その賛辞への対応にも、本音が出てしまうことがある。小説家のマーク・トウェイン氏は著書「Pudd’nhead Wilson’s New Calendar」(1894年)の題辞として「貴賤相婚のような称賛を1度受けるよりも、率直な批判を12回浴びるほうが楽だ」と述べている。ここで興味深いのは、身分違いの二人が結婚することをあらわす「貴賤相婚」、つまり不均衡を示す言葉が使われていることだ。トウェイン氏は、賛辞を受け入れることに社会的不公正と不安感が含有されている点に注目しているのだ。

 ほめられる側の人が、称賛を受け入れるのが非常に苦手、ということがある。ポジティブな評価をうまくかわすために、よく使われる戦略がいくつかある。もっとも鼻持ちならないのは、「そのジャケット素敵!」と言われてすぐに「あなたのドレスもいいね!」と返すような「ほめ返し」だろう。そしてそれに続くのが、「このボロのこと?ゴミ箱から拾ってきたようなものですよ!」のような、謙遜だ。

 しかし、なぜ人は褒められると、辛くなるのだろうか?

 シンプルに説明すると、一つには彼らが袋小路で行き詰まる、ということが挙げられるだろう。称賛を受けいれてしまうと謙遜の規範を犯すことになるが、それをかわしたり、否定したりすると、称賛の社会的機能を損うことになる。

 これらはみな、部分的には正しいと言えるだろう。しかし、これでは、ほめられた人がなぜニュートラルな「ありがとう」という言葉が返せないのか、という理由を説明できていない。実際には、ありがとうと言ってしまうと、ほめ言葉を受け入れたことになり、必然的に相手に借りを作ってしまうことになる。市場取引を学ぶ者なら誰でも説明できることだが、ほめ言葉を受け取るだけ受け取って、何の見返りも提供しない、ということはあり得ないのだ。

 ほとんどの場合、世の中が「ギブアンドテイク」で成り立っているという状況を人は十分に認識している。しかし、お返しを用意していない、というまれな状況に陥ってしまうと、人は罪悪感をおぼえることがある。フランス人哲学者のジャック・デリダ(Jacques Derrida)氏は、人は贈り物を受け取ることで、経済交流のサイクルにとらわれた債務者のような気分になることがあると考えた。人は義務を課せられることを好まず、不平等に気づいたらすぐにそれを解消しようとする。

 フランクフルト学派の思想家、テオドール・アドルノ(Theodor Adorno)氏が懸念したように、私的な贈答行為は空虚な儀式となっている。少なくとも、仕方ないからしぶしぶ贈り物をする、というケースが存在することは否めない。これは、贈答行為そのものの問題というよりも、品物を選ぶことに関係してくる。贈答は義務のようなもので、それでいて世の中に広く受け入れられているものだ。もちろん、恋人や友人、家族にも贈り物をする。しかし、一方でホワイトエレファントギフトやシークレットサンタ(いずれも匿名のプレゼント交換)といったように、プレゼント選びを楽しいと思えるような身近な人間関係を超えたところでも、贈答習慣が存在する。

 このような、たとえば、話したこともない同僚に贈り物をするという強制的なケースに備え、あらかじめ印刷済みのカードや商品ガイドが用意されているのだ。良く知る相手に送る場合でも、人は贈答にかかる労力を最小限にしたいと思うのだ。ある時、ある親戚が私にドライフルーツやナッツ、塩漬け肉が入ったギフトバスケットを贈ってくれた。送り主も私もベジタリアンなのだが。

 「ギブアンドテイク」を遂行すること自体が贈答の目的となり、相互取引の色合いを強めているとするなら、賛辞についても同じことがいえる。

 「賛辞にお返しをして義務を果たす」もしくは「罪悪感に見舞われるか」という選択が強要されるのは、我々の属している社会が、商品やその取引を中心に構築されていることに由来する。問題は、もし称賛を取引だとするなら、我々がそれを「借り」だと感じるのも自然なことだ。しかし、我々が賛辞についての考え方を完全に克服できると仮定した場合、生活の社会的、経済的形態についても再考しなければならない。これは難題だが、それこそがアドルノ氏やデリダ氏が望んでいた「真の贈り物」なのかもしれない。

This article was originally published on AEON. Read the original article.
Translated by isshi via Conyac

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