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エヴァンゲリオンと会田誠のセカイ 「セカイ系」から「シャドー系」へ

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エヴァンゲリオンと会田誠のセカイ 「セカイ系」から「シャドー系」へ

 現代美術家・会田誠氏の個展『まあ、Still Aliveってこーゆーこと』が、新潟県立近代美術館で開催された。エログロで知られる会田氏だが、本展では比較的控えめな印象だ。その代わりに引き立っていたキーワードは、「セカイ」だ。

 日本のカルチャーと世界との関係を考えるとき、「セカイ系」という考え方は避けて通れない。なぜなら、エヴァンゲリオンに代表されるような「セカイ系」は、多くの作品に影響を与えたからだ。エヴァンゲリオンと会田誠は、それぞれ異なる「セカイ」を示している。その違いを知ることでわたしたちは、わたしたちが住んでいる「セカイ」の有り様を知ることになるかもしれない。

◆中景のないセカイと近景のないセカイ
 まず、主にアニメで用いられる「セカイ系」とは、個人の物語と全世界の物語が直結している世界観を持つ作品群のことである(一般的な世界とは異なるため「セカイ」と表記される)。エヴァンゲリオンの登場人物であるシンジ君の精神心理は、他のコミュニティや社会を介在させないまま、世界(全世界的危機)と直接関連している(個人と世界を結びつけるときには何らかの中間項が介在するが、「セカイ系」においては、近景-中景-遠景の中景が欠落した状態で物語が展開していく)。

 一方、会田誠のセカイにおいては、エヴァンゲリオンのように個人的な物語は特に描かれてはいない。会田誠はシンジ君ではない。シンジ君のような悩みや逡巡が会田氏にないということではなく、作品そのものには、そのような個人的な物語が織り込まれていない。会田誠の世界観には、エヴァンゲリオンとは異なり、近景がない。そこにある関係は、日本と国際社会だ。

 以上のことからシンプルな構図を汲み上げる。エヴァンゲリオンのセカイは、「個人(近景)-世界(遠景)」、会田誠のセカイは、「日本(中景)-世界(遠景)」となる。近景が欠落した会田誠のセカイについてもう少し具体にみてみよう。

◆「私」はセカイのどこにいるのか
 展覧会の出品作品には例えば、『ビン・ラディンと名乗る男』や『国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ』という作品がある。会田氏はそれぞれ、ビン・ラディン、安倍首相に扮しているようにみえる。該当人物と比べてややとぼけた格好にずらした仕方を採用する前者と、逆説的に本質的な議論を展開する後者には、世界(社会的危機)への、会田誠特有の捻れたアプローチがみてとれる。両作品とも、会田誠本人が出演してはいるが、それは会田誠という個人そのものという訳では特にない。シンジ君のようなプライベートでナイーブな語り口とは異なり、笑いやとぼけ、批判や皮肉、打開策や謎などが含まれている(小鳥が好きな「ビン・ラディン」は、こたつで日本酒を飲んでいる。あんこが好きな「安倍首相」は、グローバリゼーションを危惧している)。

 世界との関係を結ぶとき、そこには、世界を対象化する視点が存在する。エヴァンゲリオンでその視点はシンジ君だが、不思議なことに会田誠においてそれは、会田誠本人ではないようにみえる。それが最も顕著なのは、閉ざされた部屋の中で無言の国際電話をかけ続ける映像作品『ロンリー・プラネット』だ。世界中の不特定多数に電話をかけておきながら先方に全く応じないその様子は、所在不明の誰かという奇妙な存在を突きつけている。エヴァンゲリオンにおいて「私」は、世界の中で世界と直結しているのに対し、会田誠において「私」は、世界の外で間接的に存在している。

◆影のセカイ
 近代の本質は、世界が像となり、人間が主観になることだと、最も重要な思想家の一人であるハイデガーは『世界像の時代』の中で述べている。これを日常的に言い換えるなら、パソコンやスマートフォンをみるときと似ているだろう。画面に映し出されたイメージは世界そのものではないかもしれないが、わたしたちはその像を世界として認識している。

 ハイデガーはまた、同著でこうも指摘する。「人間がスプエクトゥム(基底主体)となり、世界が像と化せられるに及んで、計量しえないものが見えない影となって、地上一切の事物を覆っているのです」。これは、世界を像としてみることで生まれる世界像の影が、みえない未知の何かとして存在していることを示唆している。

 視点が世界の中に埋没しているエヴァンゲリオンのセカイは、世界像そのものである。「終わりなき日常」を生きる未成熟な身体が、個人と世界を直結させるという近視眼的な世界観を抱くのはいわば自然なことだ。しかしながら、昨今(特に311以降)、そのような「セカイ系」についてあまり見聞きしないのはなぜだろう。それは、他のコミュニティや社会を意識せずとも生きていける平板な日常が、先の震災によって凹凸を持ちはじめるという変容に起因しているのではないだろうか。わたしたちは、「セカイ系」という日常の世界観をアップデートしなければならない現実と向き合っている。

 このとき、視点が世界の外にある会田誠のセカイは、わたしたちの世界を考える上で重要な役割を果たすだろう。なぜなら会田誠の作品は、世界像の「影」を扱っていると言えるからだ(とすれば、『まあ、Still Aliveってこーゆーこと』という展覧会タイトルの「こーゆーこと」とは、世界像の「影」の様子と考えることができる)。「セカイ系」を採用できない現在のわたしたちの世界観はまさにこの、影のセカイ(「シャドー系」)なのではないだろうか。会田誠の作品群が、現在のシャドー・ワールドを映し出していると考えるとき、それらをみるわたしたちは、いったいどこにいるのだろう。

(緑川雄太郎)

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