「数をもたない」人々:言語に数を表す言葉がなかったら?

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著:Caleb Everettマイアミ大学 Andrew Carnegie Fellow, Professor of Anthropology)

 数はすべての文化に存在するわけではない。世界最大の河川アマゾン川の奥深くの支流には数をもたない狩猟採集民が暮らしている。このような人々は正確な数を示す言葉を用いる代わりに、もっぱら「少しの」「いくらかの」に当たる言葉に頼っているのだ。

 対照的に、我々の暮らしは数に支配されている。この記事を読んでいる読者諸氏も、現在の時間、年齢、銀行の口座残高、体重等々を承知しているだろう。我々が考える時に用いる正確な(そして厳密な)数は我々のスケジュールから自尊心に至るまで、あらゆることに影響を及ぼしている。

 しかし歴史的に見れば、我々ほど数にこだわる存在はそう多くはない。人類誕生以来約20万年経つが、ほとんどの間人は正確に数量を表す手段をもっていなかった。さらに、今日存在する7000の言語による数の使用方法は劇的に異なる。

 数をもたない言語を話す人々は、数の発明が人類の経験をいかに再形成したかについての数少ない手がかりを与えてくれる。新刊書の中で、私は人類が数を発見した方法、数が農耕の出現から文字の起源に至るまでの人類にとっての画期的な出来事に果たした重要な役割を探っている。

◆数をもたない文化
 数を持たない文化、または1つか2つの正確な数しかもたない文化にはアマゾンのムンドゥルクピダハン(ピラハ)などがある。また、数を表す言葉を教えられたことがないニカラグアの一部の成人に関する研究もある。

 もし数が存在しなければ、健全な大人は4までの数量を正確に区別し思い出すことが困難だ。ある研究で、研究者は木の実を1つの缶に1個ずつ入れ、次に1個ずつ出し、これを見ている人に全部出し終わった時に合図をするよう求めた。その回答から、木の実の数が全部でたった4個か5個であっても、数をもたない人々は缶に残っている木の実の数を追跡し続けるのが困難であったことが判明した。

 上記の実験と他の多くの実験から次の1つの結論に落ち着く。それは、人が数を表す言葉を持たない時、我々にとっては自然に見える数量の区別が困難になるということだ。世界の言語のうち数をもたない、あるいはほとんどもたない言語はほんのわずかにすぎないが、数を表す言葉はヒューマン・ユニバーサル(地球上の全ての文化に共通してみられる要素、パターン、特徴、習慣)ではない。

 数をもたない人々は認識的には正常であり、数世紀の間支配してきた環境にうまく適応している。私は宣教師の息子として、青春のひとときを数をもたない土着民と共に暮らしたことがある。うねうねと曲がりくねった黒褐色のマイシ川の岸辺で暮らす上記のピダハン(ピラハ)族だ。私は他のよそ者同様、彼らから学んだ河川の生態の卓越した理解度に、いつも感心させられた。

 それでも、数をもたない人々は数量の正確な区別が必要な作業に苦労する。これはおそらく驚くべきことではあるまい。結局、数えることができなければ、木の上にヤシの実が7つあるか8つあるか伝える手段はないのだ。これほど単純な区別も数を持たない目から見ればはっきりしないのだ。

◆子供と動物
 この結論は、工業化社会の数認識ができない子供たちにも反映される。

 子供たちは、数を表す言葉を親から教えられる前は、3を超える数字については大まかにしか区別することができない。我々はより大きい数量を一貫して容易に認識する前に認知ツールを与えられる必要がある。

 事実、子供たちが数を表す言葉の正確な意味を理解することは何年もかかる忍耐強いプロセスだ。子供たちが数を学ぶ最初の段階は文字を学ぶのと似ている。数が順番に並んでいることは理解できても、それぞれの数字が何を意味するかにはほとんど気づかない。時と共に、与えられた数がその前の数よりも大きな数量を表すことを理解するようになる。この「後続数の原理」は我々の数の認識の一部だが、それを理解するには、徹底した練習が必要だ。

 実は「数字に強い人」というのは存在しない。人には定量的差異を巧みに処理する素因はない。子供のころから生活に数を取り入れる文化的伝統がなければ、誰もが基本的な定量的差異にさえ四苦八苦するに違いない。

 数の言葉と数字は、親や友人や教師によって認知経験に巧みに誘導されるにつれて、定量的推論を変えていく。その過程があまりにも当たり前であるために、時には定量的推論が成長の自然なプロセスの一部だと思われがちだがそうではない。

 ヒトの脳は一定の数値本能を備えていて年と共に洗練されるが、そのような本能は限られている。例えば、ヒトは生まれた時でさえ、8個と16個などの2つの明らかに異なる数量を区別する能力をもっている。

 しかし、そのような抽象化の能力を備えているのはヒトに限らない。チンパンジーや他の霊長類と比較したヒトの数値本能は多くの人が想像するほど並外れたものではない。一部の基本的な本能的定量推論は、鳥類のような哺乳類から遠い血縁関係にある生物群と同程度でさえあるのだ。実際、オウムなどの他の生物種と共に研究すると、それらの種も我々が「数」と呼ぶ認識力ツールを導入されると定量的思考を高めることができることが示唆されている。

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◆数の誕生
 そもそも人類はどのようにして「自然に反して」数を発明したのだろうか。

 その回答は文字通り、指先(身近なところ)にある。世界の多くの言語は十進法、二十進法、五進法の記数法を用いている。すなわち、これらの小さな数字が大きな数字の基となっている。Fourteen=14(four(4)+teen(10))、thirty one=31(three(3)x10 +one(1))のような例からも明らかなように英語は十進法の言語だ。

 英語圏の人々が十進法言語を話しているのは、先祖の言語であるインド・ヨーロッパ祖語が十進法だったためだ。インド・ヨーロッパ祖語が十進法指向だった訳は、多くの文化で見られるように、先祖の手が「片方の手の5本の指がもう片方の手の5本の指と同じである」という認識を理解するのに役に立ったからだ。そのような過渡的思考が言葉として表現され、何世代にもわたって受け継がれた。そのため多くの言語の「五」という語は「手」を表す語に由来している。

 したがって多くの記数法は人間の言語の能力と手や指に注目する傾向という2つの主な要因の副産物であるといえる。ヒトが二本足で直立歩行するようになったことの間接的な副産物である手に対する注目は多くの文化で数を生み出したが、すべての文化ではなかった。

 数をもたない文化は特別な数に関する伝統の認知的影響にも知見を与えてくれる。時間を考えてみよう。1日は分と秒の支配を受けているが、これらの実際は身体的感覚としてリアルなものではなく、数をもたない人々にとっては存在しないものだ。分と秒は、数千年前にメソポタミアで使用されていた通常とは異なる60進法の話し言葉、書き言葉の名残なのだ。我々の心の中に存在するこのような古代人の遺物である数はすべての人類には概念として受け継がなかった。

 数に関する言葉の研究は、ヒトという種の主要な特徴の1つが卓越した言語的、認識的多様性であることを示してくれる。間違いなく、すべての人類の認識に共通点はあるが、根本的に異なる文化は深く異なる認知体験を養い育ててくれる。我々の認知生活が異文化間で異なっていることを真に理解するためには、ヒトの言語的多様性の奥深さを継続的に調査する必要がある。

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by サンチェスユミエ

The Conversation

Text by The Conversation