クーデター未遂の背景:イスラム教と民主主義の結婚を守ってきた軍、イスラム傾斜の大統領
トルコで7月15日に軍の一部が蜂起し、政権の転覆を図ったが、このクーデターは未遂に終わった。国民の99%がイスラム教徒とされるトルコだが、建国以来、政教分離の世俗主義を国是としており、憲法にも定められている。軍は、建国の精神とも言えるこの世俗主義の守護者をもって自任しており、これまでにも、政権がイスラム主義を強めた際にクーデターなどの形で介入してきた歴史がある。今回、軍(の一部)が蜂起するに至った経緯を、海外メディアや識者の解説を通じてあらためてたどってみよう。
◆世俗主義はトルコの建国の精神
トルコが世俗主義を採用したのには、歴史が深くかかわっている。トルコ共和国は、トルコ革命により、1923年、イスラム圏で最初の政教分離国家として誕生した。その前にあったのは、600年以上続いたイスラム国家のオスマン帝国だった。第1次世界大戦の終結までに、オスマン帝国の領土は欧州列強やロシアなどに次々と占領された。政府は不平等条約を結び、保身を図ったが、トルコ人の不満が爆発。ケマル・アタテュルクを中心として反対運動が組織化され、オスマン帝国は滅亡に至った。アタテュルクはトルコの初代大統領となった。
ケマルの狙いは、西欧国家に比肩しうる近代国家を打ち立てることだった。日本の外務省の「わかる!国際情勢」によると、「アタテュルクは、宗教と政治を分離しなければトルコの発展はないと考え、国家の根幹となる原理として政教分離(世俗主義)を断行。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し」た。また、帝国から民主国家への移行に際して、残存する旧勢力の影響を完全に排除するという狙いもあったようだ。
◆世俗主義の擁護者として軍はたびたび政治に介入
トルコ軍は、この世俗主義の理念の守護者をもって自任してきた。オーストラリア放送協会(ABC)によると、トルコのCevik Bir将軍はかつてこう語った。「トルコでは、イスラム教と民主主義が結婚している……この結婚の子供が世俗主義だ。現在、この子はときどき病気にかかる。トルコ軍はこの子を救う医師だ。この子の病気の重さに応じて、われわれはこの子が確実に健康を取り戻すのに必要な治療を施す」
実際、トルコ軍はたびたび政治に介入してきた。過去に、軍事クーデターによって政権を転覆させ、権力を掌握したことも2度(1960年、1980年)ある。またその他、圧力を加えることによって政権を退陣に追い込んだこともあり、その1つは「書簡によるクーデター」(1971年)と呼ばれている。
訴訟によって、世俗主義に反する動きを見せたイスラム政党を非合法化することも、軍の介入方法の1つだった。ただ、世俗主義よりはイスラム教がはるかに社会に根付いているトルコでは、イスラム政党を解党させても、すぐにその後釜が現れた(ABC)。
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科の内藤正典教授は、読売新聞への寄稿で、「社会の方は1990年代の後半から徐々に再イスラム化の方向を示していく。国民の大半がスンニ派のムスリムといわれるトルコで、イスラムに敵対的な世俗主義はついに根付くことはなかった。世俗主義の支持層は、都市部の中流以上の階層に多く、知識人と軍人であり、多数を占める中流以下の所得階層は世俗主義を理解できなかった」と解説している。
◆イスラム主義傾向をだんだんと表に出してきた与党
現在トルコを率いているのはイスラム政党の公正発展党(AKP)だ。エルドアン大統領が2001年に結成した党で、2002年から現在まで与党であり続けている。7月の未遂に終わったクーデターで、軍(の一部)が標的としたのは、このAKP政権とエルドアン大統領だ。
エルドアン氏は結党当初からずっと党首を務めていたが、2014年の大統領就任にあたって後進に譲った。同党の党規で、党首が首相を務めることになっているためである。同氏は2003年からその時までトルコ首相だった。与党になってから同氏が首相になるまでタイムラグがあるのは、同氏が以前に有罪判決を受けており、その間被選挙権をはく奪されていたためだ。
イスタンブール特別市長だった1997年、同氏は演説で「われわれのミナレット(イスラム寺院の尖塔)は銃剣、われわれのドームはヘルメット、われわれのモスクは兵舎」という詩の一節を引用した。そのことが宗教的憎悪を扇動したとして罪に問われ、有罪となり、刑務所に収監された。
結党当初は穏健な保守主義を掲げていたAKPだったが、ABCによれば、近年だんだんと専制的、宗教的、非世俗主義になってきていた。例えばトルコには、公務員はイスラム教徒であってもヘッドスカーフの着用を禁じた法令があったが、その法令を撤廃した。
◆憲法を変えてでも自身への権力集中を求めるエルドアン大統領
AKPがイスラム政党色を強めていることに加えて、軍が強く警戒したのは、エルドアン大統領が自身への権力集中を着々と進めていることだっただろう。ガーディアン紙はこの動きを、エルドアン大統領による「スローモーションのクーデター」と呼び、トルコはその渦中にあるとの見方を伝えている。この3年間、彼は権力の集合点を乗っ取るための措置を順序立てて講じていた、と同紙は語る。
今回のクーデター未遂事件で軍はテレビ局を占拠したが、エルドアン氏は報道機関への政府の管理を強めてきている。国際NGO「フリーダム・ハウス」による「報道の自由度」格付けで、トルコは2013年までは「部分的に自由」だったが、その翌年以降は「自由がない」に転落している。政府は司法組織への関与も強めている(ガーディアン紙)。
また本来、トルコの大統領職は「儀礼的な立場」なのだが、エルドアン氏は大統領選での(得票率51.8%という)民意を根拠に積極的に国政に介入していた(日経新聞)。さらに、現行の議院内閣制を廃し、実権型大統領制への移行を可能にするため、新憲法制定を目指している。テレグラフ紙は、エルドアン大統領のイスラム主義の支持は、彼自身のためだけにあつらえた、全権を有する帝王的大統領制を創設するため憲法を改定するという彼の望みとともに、多くの支持者を遠ざけている、と語る。
それでも、国内の好景気や貧困層対策などが功を奏して、エルドアン氏に対する支持率は依然として高い。それが今回のクーデターが失敗に終わった理由の1つでもあると内藤教授は説明している。
◆エルドアン氏と軍の闘いの歴史
おそらくは軍の政治介入を防ぐ意図から、エルドアン氏は首相就任以来、軍幹部の追放を繰り返してきた。テレグラフ紙によると、2003年と2004年には、クーデターを企てたとして上級将校を告発し、何百人も裁判にかけたという。また2007年、警察の手入れによって爆発物の隠し場所が発見され、エルドアン首相(当時)に対しクーデターを企てた容疑で、将校を含め何百人もが裁判にかけられたという。
内藤教授によれば、2008~9年ごろにかけて、軍幹部や世俗主義のジャーナリスト、実業家などがクーデターを企図したとして相次いで逮捕、訴追される事件が起きたという。世俗主義を守る立場の軍にとっては、将官の大半が訴追されて大変なダメージを受け、これを機に政治介入は困難となった、と教授は解説している。
ガーディアン紙は、今回のクーデター未遂事件はやり方が古めかしく手際の悪いものだったと語り、もしこのクーデターに素人の自暴自棄の雰囲気があるとしたら、それはおそらく犯人(軍)が、エルドアン大統領が軍を完全に掌握するのを食い止める最後のチャンスだと考えていたからだ、と語っている。
8月初めに、軍の幹部人事を(首相ら文民が)決定する「高等軍事評議会」の開催が予定されていた。ガーディアン紙が言おうとしているのは、そこで軍が完全に骨抜きにされると首謀者が考えたということだろう。