イタリアのヒグマ、「おとなしい」方向に進化か 攻撃的な個体を人が排除した影響

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 人と野生動物の衝突は、世界各地で深刻な課題になっている。大型哺乳類は人間活動による生息地の分断や迫害を受け、個体数を減らす例が多い。一方で、人間の存在そのものが、動物の行動や性質を変えてきた可能性はどこまであるのか。イタリア中部にだけ生息するアペニンのヒグマを対象にしたゲノム研究は、この問いに進化の観点から迫っている。

 この研究は、進化生物学の学術誌「Molecular Biology and Evolution」に掲載された論文で、アペニンのヒグマ(学名Ursus arctos marsicanus)の参照ゲノムを整備し、複数個体の全ゲノムを解析した。

◆孤立し、人の近くで生きてきたヒグマ
 アペニンのヒグマは、イタリア中部のアペニン山脈周辺に限られた個体群で、ほかのヨーロッパのヒグマと比べて体が小さい。これまでの観察研究では、人に対して比較的攻撃性が低い行動傾向が指摘されてきた。

 この個体群は、過去数千年にわたってほぼ完全に孤立してきたと考えられている。農地拡大や森林開発によって生息地が分断され、人間の生活圏と近接した状態で生き延びてきた歴史がある。現在の個体数は数十頭規模とされ、ヨーロッパでも特に希少なヒグマ集団のひとつだ。

◆ゲノム解析で見えた「行動」に関わる変化
 今回の研究では、アペニンのヒグマについて高精度の参照ゲノムを構築し、複数個体の全ゲノムデータを解析した。その結果、遺伝的多様性が低く、近親交配の影響が強いという、小規模個体群では典型的な特徴が確認された。

 注目されたのはそれだけではない。行動や神経機能に関係するとされる遺伝子の一部で、自然選択が働いた可能性を示すシグナルが見つかった。研究チームは、これが攻撃性の低下と関係している可能性があると指摘する。

◆人間が「選択圧」になった可能性
 研究者が仮説として挙げるのが、人間の存在そのものが選択圧として働いたという見方だ。集落や農地に近い環境では、攻撃的な個体ほど人との衝突を起こしやすく、結果として排除される確率が高くなる。逆に、人を避ける、あるいは衝突を起こしにくい性質を持つ個体は生き残りやすい。

 こうした状況が世代を重ねて続けば、個体群全体として「おとなしい方向」の行動特性が強まる可能性がある。これは人間活動が野生動物に与える影響を、単なる脅威としてではなく、進化的な力として捉え直す視点でもある。

◆保全の現場に突きつけられる問い
 小さな個体群が抱える最大の課題は、遺伝的劣化と絶滅リスクだ。そのため、他地域から個体を導入し、遺伝的多様性を回復させる案が検討されることがある。だが今回の研究は、そうした介入が思わぬ影響をもたらす可能性も示唆する。

 もしアペニンのヒグマが、人と近い環境で生きる中で形成された独自の行動特性を遺伝的に持っているのだとすれば、外部個体の導入によってその特徴が薄れる可能性もある。人との衝突を減らす性質が、結果として保全に寄与している場合も考えられるからだ。

◆「人の影響」をどう捉え直すか
 人間活動は、多くの野生動物にとって明確な脅威であることに変わりはない。ただ、アペニンのヒグマの例は、人との共存が行動や性質の進化にまで影響し得ることを示している。行動の変化が遺伝によるものか、学習や環境適応によるものか、その境界を見極めるにはさらなる研究が必要だ。

 それでも今回の研究は、「人がいるから野生動物は弱る」という単純な図式では捉えきれない現実を浮かび上がらせる。人と野生動物が同じ空間で生きる時代に、何を守り、何を変えるべきなのか。その問いを改めて突きつける成果といえる。

Text by 白石千尋