ヒップな生活革命、その先のストーリー
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「普段使っているモノがどうやって作られているか、みんな考えたりしないでしょう?」
2006年、生まれて初めてネイティブ・アメリカン居留区を訪れた私に、陶器を作る様子を見せてくれたホピ族の女性が言った言葉である。
その言葉は、そのときの私の心にずしりと響いた。
ネイティブ・アメリカンたちが手を動かして作る器は、セドナあたりのショップに並ぶ。人はアリゾナやニューメキシコを訪れ、自然に圧倒され、ネイティブ・アメリカンの教えに触れて、現代の生活に戻っていく。けれどその人が都会に持ち帰った器を手に取り、どうやって、誰の手によって作られたのか、その過程に思いをはせる確率は、きっととても低いのだろう、と。彼女の言葉は、その旅について書いた原稿に登場したあと、私の心の中の引き出しにずっとしまわれていた。
それから8年後の2014年に、『ヒップな生活革命』(朝日出版社)という本を書いた。2008年に世界を恐怖の底に陥れたリーマン・ショックを経て、これまで大量消費志向だったアメリカの消費者のマインドがシフトするのを見て、それまで取材していた、地産地消やサード・ウェーブ・コーヒー、メイド・イン・アメリカなど、衣食住の世界で局地的に起きていたいくつものムーブメントを、ひとつの線で結ぶという試みだった。
「アメリカの消費者動向の今を探る」というつもりで書いた本は、それまで訪れたことのなかった日本の地方都市や各地での対話に、私を誘ってくれた。そこでさらに、モノがどうやって作られているのか、作り手がどういう気持ちで制作しているのかに触れ、「生活革命」のあと、何を伝えるべきなのか、伝えたいのかを考えることになった。
その本が出て、東京で取材を受けたときに言われた言葉の中に、強く印象に残っているものがひとつある。
「あなたの書く“革命”の絵は美しいけれど、日本の文化は消費に牽引されている。こういうムーブメントが日本で起きることは、難しいのではないか」
そもそも私たちは、モノを購入することを「消費」と呼ぶ。辞書の第一の定義は「使ってなくすこと」だ。「消費」は、日本でもアメリカでも、経済を牽引する力として、また「豊かな現代」の象徴として扱われてきた。さらには経済の健全性を図る指標としても使われている。そうしたことの前提に、「使い尽くす」という意味が込められている。
「消費」という言葉はモノ以外の話題でも使われる。たとえば人材について、「そんな売り方をしているとすぐ消費されちゃうよ」といった言い方をする。つまり消費とは、使うだけ使って、最後はポイっと捨ててしまうことらしい。そんなコンセプトが、経済を支えている。
私にとって、服を着るという行為は、いつも生活の中で大きな場所を占めてきた。ファッションという世界のおかげで、今あるキャリアの一部を築くことにもなった。自分のクローゼットに入っている、破れてボロボロになったロックTシャツも、若い頃無理して買ったブランド物のパンツも、旅先で買ったネイティブ・アメリカンが作ったラグや人形も、同じように愛している。こんな人間にモノを持たない生活はできない。でも、モノを買う自分の行為が「消費」というカテゴリーに入れられてしまうことには抵抗を感じてきた。「消費」ではない、モノとの付き合い方の形があるはずだと思うから。
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