日本を去ってから16年 楽天、日ハム、横浜でプレーしたライアン・グリンの現在

写真は本人提供

2006年、東北楽天ゴールデンイーグルスに入団し、日本ハムファイターズや横浜ベイスターズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)でも活躍したライアン・グリンさん。

【動画】オンライン取材に応じたライアン・グリンさん

現在は母国のアメリカで、ファイナンシャルプランナーとして働いています。

今回、ライアンさんにオンライン取材を行いこれまでと現在について語ってもらいました。

ライアン・グリンの現在

ライアンさんは2006年、球団創設2年目の楽天で7勝をマーク。

一場靖弘さん(2025年4月現在はルートインBCリーグの球団山梨ファイアーウィンズコーチ)、山村宏樹さん(2025年4月現在は解説者)と並ぶチームトップの7勝とあり、先発陣の柱として活躍していました。

2007年、日本ハムファイターズに移籍すると9勝をマーク。

交流戦では5勝0敗、防御率1.01の好成績でMVPに選ばれました。

ライアンさんは2009年に横浜ベイスターズに移籍するも、シーズン終了後に日本球界を去りました。

その後、アメリカの独立リーグ「アトランティックリーグ」や台湾プロ野球リーグ「CPBL」でプレーし2011年に現役を引退。

元々ライアンさんは、バージニア州立軍事学校で経済・ビジネスの学位を取得していました。

現役時代は資産管理を上手にやりくりしていたといいますが、38歳の頃、 自分が稼いだお金だけでは将来の生活設計ができないことに気付いたと振り返ります。

将来に備えた生計を立てないといけないと考え、同時に働くのが好きなライアンさんはファイナンシャルプランナーとしてセカンドキャリアを歩み始めました。

ライアン・グリンの日本での思い出

日本での一番の思い出は何かと聞くと、日本ハムファイターズ時代に日本シリーズに進出したことだといいます。

「日本での野球生活は、野球をしていた中で一番素晴らしい経験の一つでした。

日本ハムファイターズにいた2007年、パ・リーグで優勝して日本シリーズに進出した時は、 とても楽しい時間でした。

外国人選手だけでなく、日本人選手とも仲の良い友人ができました。あのシーズンは野球人生においておそらく一番幸せな時間でした」

チームにも馴染み、マイケル中村さん、フェルナンド・セギノールさん、ダルビッシュ有選手、髙橋信二さん、稲葉篤紀さんたちとは特に仲が良かったと明かしました。

ライアン・グリンが振り返る野村監督との思い出

楽天時代、ライアンさんは野村克也監督から多くのことを学んだと回顧。

入団した直後、野村監督と初めて会った日のことを今でも覚えているといいます。

「日本に行くまで野村監督の評判については知りませんでしたが、とても親切で思いやりの心を持って接してくれました。

球団事務所で通訳を通じて野村監督と初めて会った際、野村監督は私が英語で言っていることは理解できない部分もあったと思いますが、私が何を言っているか声のトーンでわかっていたと思います。

野村監督は『ライアンはとても誠実で礼儀正しいように見える』と言っていました」

シーズン中に印象的だったのは、2006年9月27日にスカイマーク球場(現在のほっともっとフィールド神戸)でオリックス・バファローズ戦に登板した日だといいます。

この試合、8回表に塩川達也さん(2025年4月現在楽天イーグルスで一軍内野守備走塁コーチ)がホームランを放ち先制。

ライアンさんは8回を投げて112球、10個の三振を取り無失点に抑える好投を見せていました。

当時の投手コーチはライアンさんに9回も投げてもらいたいと考えていましたが、ライアンさんが辞退。

ライアンさんは通訳を通じて投手コーチに「1点差なので(無事に投げ切れるかどうか)とても不安です。疲れていない人に次のイニングを譲った方がいいと思います」と伝えました。

その言葉を聞いた投手コーチは「ライアンはとても弱い」と激怒。

野村監督はコーチとライアンさんのもとにやって来て、ライアンさんの意向に理解を示していました。

「ライアンは私たちに正直に話している。彼は試合に負けたくない。チームのために勝とうとしている。彼の言っていることに耳を傾けないといけない」

ライアンさんは、「野村監督は私のことをよく理解してくれていて、とても良好な関係でした。その関係性こそが日本で成功を収めることができた1つの理由だと思います」と振り返ります。

また野村監督は日頃からライアンさんに、登板時の心構えについてもアドバイスを送っていました。

「『常に攻める姿勢』というのが、野村監督なりの私に対するアプローチでした。

『ライアンが持つ素晴らしい速球に頼るべきだ』『もし迷ったら自信を持って速球を投げるべきだ』と言っていました。

言語の壁はありましたが、その教えは常にありました。

野村監督は本当に私のことを信用してくれていましたし、投球パフォーマンスの向上にもつながりました。

自分には『味方がいる』『野村監督が自分を支えてくれている』と感じたことは1人の選手にとても大切なことでした」

ライアンさんが楽天を退団した後も、野村監督への感謝の言葉は忘れませんでした。

「私の決断を理解し、尊重してくれました。彼は素晴らしい結果を残せるよう願ってくれました。

チームを離れた後も私に対していつも親切でした。

ファイターズに移籍後、初めて仙台に戻った際、野村監督と話がしたいと考えていました。

対面を果たした際、野村監督が私にチャンスをくれたこと、私に賭けてくれたことについて感謝の言葉を伝えました。

お互い笑顔を見せながら、彼は私に幸運と健康を祈ってくれました」

ライアン・グリンの私生活

ライアンさんは、日本でプレーしていた頃に結婚していた女性とは別れ、2015年に現在の妻であるアシュリー・マリーさんと再婚。

アシュリーさんの仕事も、ファイナンシャルプランナーです。

ライアンさんは前妻の子供2人と、アシュリーさんとの間に授かった2人と、家族6人で暮らしています。

上の2人は26歳、15歳。下の子2人は7歳、5ヶ月と子育てに励む日々を送っています。

そのため現在では、アメリカも含めて野球のニュースを追えていないようです。

最後にライアンさんは、2011年に発生した東日本大震災の被災地宮城県に思いを馳せました。

「テレビで津波の映像を見た時、とても悲しくて胸が張り裂ける気持ちでした。

仙台空港の映像を見た時 、『どれだけの水が押し寄せたのだろうか』と思いました。

津波がどれだけ押し寄せたのかと想像がつきませんでした。自分が見ている光景が信じられない気持ちだったのです。

仙台にいる皆さんが気の毒で、現実のことだと思えませんでした」

Text by Fumiki Kamei