被災地の復興に向けて 藍を育てる福島の農家
10年前、福島原子力発電所で発生した事故により、放射性物質が大気中に放出された。それ以降の2年間、隣接する南相馬市の農家は作物の栽培を禁じられていた。
栽培の規制解除を受け、農家を営む森キヨ子さんと小倉よし子さんは、自分たちの生活を立て直し、打撃を受けた地域を支援するための取り組みを始めた。藍を植え付け、畑で採れた染料を使った染織の仕事だ。
森さんは、「染め物をすることでつらいことを忘れられます。私たちの傷を癒してくれています」と言う。
2011年3月11日に発生した大震災と津波によって原子力発電所の原子炉3基が溶融し、農地以外にも壊滅的な被害をもたらした。発電所からおよそ20キロメートルに位置する南相馬市では、多くの家が津波によって倒壊した。この災害による同市の犠牲者は636人。残された何万人もの人々は新しい生活のためにこの土地を離れた。
藍染めによってこの地域の人々の復興を後押しすることができれば、と森さんと小倉さんは強く願った。
森さんは、「地域の人々は最初、地元で栽培された農産物を使うことに不安を感じていたが、食用ではない藍の栽培に安心感を得ていた」と話す。藍の葉に付着した放射線量を測り、危険なレベルではないことを確認した。
震災から10年がたったいま、森さんも小倉さんも藍染めに携わっているものの、抱いている使命感はそれぞれに異なる。
森さんにとって藍染めは、打撃を受けた地域に強いつながりを築くための手立てであり、また、福島産の農産物はいまでも汚染されているという根拠のない噂に対抗するための手段でもある。化学添加物を使用する、藍染めの一般的な手法を好んでいる。
一方の小倉さんは、染料を発酵させることで染色を行う伝統的な技法にこだわってきた。原子力が浮き彫りにした現代の科学技術がもたらす危険性に対して、警鐘を鳴らす意味が込められている。
森さんは、市民サークル「ジャパンブルー」を結成した。毎年100名を超える参加者に藍染めを伝えるワークショップを開催している。この活動を通して、つながりの薄れていく地域の再興に力添えできればと考えている。
先日、この地域でマグニチュード7.3の地震が発生したものの、同サークルが毎年行っている展示会は予定通り行われた。会場となったコミュニティセンターは、10年前避難所として使われていた場所だ。
森さんは、「家の中の壊れた家具などはあとで片付けできるからと、メンバー全員がこの展示会に参加しました」と言う。
小倉さんは、このサークルには参加していない。先端技術の効率性を重んじ、そのマイナス面に目を向けずに依存することで、悪い結果を招くことにもなると原発事故によって示された。小倉さんは、自然由来の工程こそが大切だと考えている。
小倉さんは、「原発事故の間は本当に苦しかったです。私たちは混乱のなか、必死に避難しました。化学物質を使うことで、何か同じようなことを繰り返している気持ちになるのです。化学物質を使って作り出されたきれいな色を、私たちはあまりにも多く求めすぎています。生活は豊かになったと考えられていましたが、それは事実ではないと感じるようになりました。自然本来の色とはどのようなものか、人々に知ってほしいのです」と語る。
有機栽培された藍を使った染色は、手間も時間もかかる。小倉さんはまず、細かく刻んだ藍の葉に水をかけ、ひと月かけて発酵させる。その後、お湯と灰を混ぜて表面に浮いてきた灰汁(あく)を発酵した葉に混ぜる。温度は常に20度程度を維持し、毎日3回かき混ぜる。
小倉さんによると、工程のなかでも素晴らしいのは、どのような色に仕上がるのか予測がつかないところだという。
市職員からの支援を受け、小倉さんは有機栽培の藍を使って染色した絹マスクを作り始めた。
震災前、小倉さんは自分で育てた野菜を提供するオーガニックレストランを営んでいた。いまは夫と一緒に、有機栽培の藍を使った染色を体験できるゲストハウスを経営している。
小倉さんの自宅からわずか700メートル離れた場所には、軽度に汚染された瓦礫や土の入った黒い袋が無数に道路に沿って積み上げられている。小倉さんの夫、龍一さんによると、震災後から同じ場所に置かれているという。この袋の山は、町中のいたる所に同様に積み上げられている。
龍一さんは、「政府は、置いたままでも害はないといいます。本当に害がないと思うのであれば、東京へ運び、自分たちの近くに保管するべきです」と話す。
市当局によると、市内に保管されている放射性廃棄物は、2022年3月までに中間貯蔵施設へと移動される予定だという。
By CHISATO TANAKA Associated Press
Translated by Mana Ishizuki