過去に囚われたイギリスでいま求められるのは、創造的な思考力を育てる教育
著:Thusha Rajendran(ヘリオット・ワット大学、Reader in Psychology)
イギリスは新たなルネサンスを迎えている。古代ギリシャとローマの古典世界への回帰であった最初のルネサンスは、(少なくともヨーロッパ的な観点から)中世から近代史への歴史的な溝を埋めた。しかし、私たちが生きているのは、ロボット工学、遺伝子編集、そして以前は考えられなかった数々の現実が自分たちの存在を定義する、現代の「テクノロジーの時代」だ。
この新しい世界を生き抜くために、私たちに必要なのは新たなダ・ヴィンチやミケランジェロだ。科学者であると同時に芸術家でもある人間、つまり、創造的なビジョンを持つ人間が求められている。にもかかわらず、私たちは正反対の人間を生んでいるのだ。
若者たちは、いまだに創造力を伸ばす方法ではなく、試験に合格する機械になる方法を教わっている。彼らは早い段階から専攻を決め、教育とキャリアにおいて芸術と科学の両方を選ぶことはしない。市場でマストバイの新商品を眺める消費者のように優秀な学業成績を欲する彼らは、モノの値段を評価しても、その価値を評価しているわけではない。彼らに非はない。彼らの前の世代である私たちに非があるのだ。
指示を与える者と受ける者で労働力が成り立っていたヨーロッパの帝国時代、啓蒙時代に合わせて作られた教育制度は、既に時代遅れで、使い物にならず、目的に沿っていない。とうの昔に過ぎ去った時代の教育制度は、3R(reading:読み、writing:書き、arithmetic:計算)に重点を置いており、「どうすれば成績が上がるのか」「よい成績を取るために何をすればいいのか」と試行錯誤する実際のプロセスではなく、(成績表や学位等級などの)結果で達成度が判断される。
◆教育の消費者であることの危険性
多くの教員と同様、私はよく「どうすれば最優等の成績が取れますか?」と尋ねられる。私たちがこのような状態にあるのは、学生が消費者と見なされているためだ。そして、困難に出会うこと、批判されること、危険を冒して失敗することを恐れるなと彼らを励ますのではなく、消費者の機嫌を取り続けようという考えがあるためだ。実際のところ、失敗が積極的に推奨されない唯一の学習は、記憶障害を持つ人々が繰り返してきたであろう失敗を回避するためのヒントと指示を与えることで彼らの学習を支援する、エラーレスラーニング(誤りなし学習)だ。
私たちの多くは記憶障害を持たない。そう、私たちは試行錯誤から学ぶのだ。いくつかの偉大な発見は、試行錯誤の末に、計画ではなく偶然から生まれた。例えば、ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミングは、1928年、インフルエンザウィルスの実験中に不注意からバクテリアを撃退するカビを作り出した。
著書『The Score Takes Care of Itself(スコアはおのずとついてくる)』の中で、ビル・ウォルシュ(NFLサンフランシスコ・フォーティナイナーズの元ヘッドコーチ)は、結果ではなくプロセスに重点を置くという哲学をリーダーシップに応用している。そう、最優等の成績を求める学生には、「成績はおのずとついてくるものだよ。解析して真似ようとするのはやめなさい」と答えるのがいいのだろう。
現在、私たちが身を置いているのは、驚きの気持ちと、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが自己実現と呼んだ機会――試される機会、上達する機会、充足感を得て潜在能力のすべてを発揮する機会――に結果が取って代わった教育文化なのだ。
問題なのは、最優等の成績を取っても、3C(creativity:創造性、critical thinking:批判的思考、collaboration:協働)がますます重要になっている大学院での研究がうまくいく保証にはならないということだ。新しい発明や発見を生むために創造性と協働を要する複合的な学問の理解の先にある、マルチディシプリナリーな(multi-disciplinary:複数の学問にまたがる)研究、インターディシプリナリーな(inter-disciplinary:複数の学問が相互に関わる)研究、トランスディシプリナリーな(trans-disciplinary:学問の垣根を超えた)研究を盛り込んだ試みを行っている現代の教育機関はほとんどない。
一例を挙げると、成長中の社会的支援ロボット(socially assistive robots)の分野には、技術的な専門知識を提供するロボット技術者だけでなく、教育用、医療用、社会的介護用ロボットを作るうえで役立つ社会的交流や調査方法に関する理論を提供する心理学者が必要だ。
◆今の時代にこそ求められる創造性
世界は急速に変化しており、私たちの教育制度はこれから必要になる考え方を子どもたちに身に付けさせていない。しかし、子どもたちの生活に優れた創造性を取り入れる方法を探す以前に、芸術の分野は資金不足で、ないがしろにされている。
それに反して、高等教育では、HRI(human-robot interaction:人間とロボット間の相互作用)修士課程のような新しい課程における、コンピューターサイエンス、心理学、その他の科目領域に関わるインターディシプリナリーな研究で、まさにこの創造性、批判的思考、協働が必要とされている。
さらに踏み込んで、創造的な芸術分野の人々は学ぶということに関して正しい意見を持っていると私は主張したい。ギタリストのジョン・ウィリアムズは次のように語っている。
いい指導とは結局、自分のやりたいことができるよう人々を助け、励ますことです。ある意味、創造的な行為ですから、教師という仕事とはまるで違うかもしれませんね
芸術と科学の偽りの分離は、発見を妨げ協働を阻む二重構造の中に私たちを閉じ込めている。ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトは、「芸術とは、現実を映す鏡ではなく、現実を形にするハンマーなのだ」と語った。映画は20世紀の芸術の形で、コンピューターゲームは21世紀の芸術の形だ。これほどすばらしい科学と芸術の融合はそうそうない。
では、いかにして新たなルネサンスの人間にふさわしい環境を生み出すのか。いかにして専門知識と優れた学識を持ち、自分で考えられる人間を生み出すのか。あらゆる物事と同様、教育は私たちが生きている時代に対応して発達し、適合しなければならない。21世紀の教育に対するアプローチを根底から変える必要があるが、まずは、わが国の政治家たちに再生してもらわなければならない。
This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by Naoko Nozawa