テロリズムの定義とは?道徳的な観点からの疑問

著:Jessica Wolfendaleウエストバージニア大学 Associate Professor of Philosophy)

 アカエド・ウラー氏(27歳・男性)は、12月11日朝にニューヨークの地下鉄で、自身の体に装着したパイプ爆弾を爆発させ、4名に怪我を負わせた罪に問われている。合同テロ対策タスクフォース(Joint Terrorism Task Force)は、この爆破事件の調査を進めている。ニューヨークのビル・デブラシオ市長は、この事件について「計画的なテロ攻撃」だと述べた。

 それからほんの1ヵ月ほど前の10月31日、サイフロ・サイポフ氏がニューヨークで、自転車用道路をトラックで走行し、8名を殺害した時には、ほんの数時間後にテロ行為と断定された。

                                                                                                                 

 しかしこれとは反対に、デビン・ケリー氏は、テキサス州の教会で26名を殺害したが、テロリストとは言われていない。他の銃乱射犯にもよく見られることだが、ケリー氏には家庭内暴力の経歴があり、ケリー氏の犯行動機は、元妻への怒りだと言われている

 このように、大量殺人犯をテロリストと、非テロリストに区別するというのは、最近始まったことではない。オーランドのナイトクラブ「パルス」の銃撃犯や、サンバーナーディーノ銃乱射事件の犯人は、すぐにテロリストと断定されたが、サンディフック小学校ラスベガスの銃乱射事件の犯人は、テロリストと呼ばれていない。2015年に教会を訪れていたアフリカ系アメリカ人9名を殺害したディラン・ルーフ氏については、テロリストと言うコメンテーターもいれば、そうではないとするコメンテーターもいる。

 現在広く受け入れられている定義では、大量殺人犯の中にもテロリストとされる者と、そうではない者がいる。しかし倫理学者であり、テロリズムの研究者である私は、これに倫理的な疑問を抱いている。まず、この区別は、どの大量殺人犯にも等しく当てはめられているのか?そして、テロリストによる暴力行為と、非テロリストによる暴力行為には、道徳的な違いがあるのか?

◆「テロリスト」と断定することの重大さ
 ある行為者を「テロリスト」と呼ぶことには、大きな意味がある。テロリズムは、多くの場合、大規模な国民監視システムや、移民禁止法令、より過激なところでは拷問など、徹底的なテロ対策の実施もやむを得ないほどの、深刻な脅威のように言われる。

 さらに「テロリスト」と断定することで、特に道徳的な観点から、強烈な非難を受けることが多い。例えば哲学者のマイケル・ウォルツァー氏は、罪のない市民を狙い、日常生活に恐怖を生むという点で、テロリズムには「弁護の余地がない」と言う。私たちはすべての殺人犯を非難しながらも、テロリストとされる殺人犯に対しては特に、道徳的に非難して然るべきと考えることが多い。

 そこで、ウラー氏やサイポフ氏を始めとする大量殺人犯が、テロリストか否か考えてみると、2つの疑問が生じる。まず、彼らの行為は、一般的な定義に見合っているのか?そして彼らの行為には、道徳的に強い非難を受け、徹底的な防止策を正当化するだけのものがあるのか?

◆テロリズムとは?
 まずは、ウラー氏とサイポフ氏の行為が、テロリズムとして数えられるか検討してみよう。

 イーゴル・プロモラッツ氏や、C.A.J.コーディー氏など著名な哲学者らは、テロリズムを、罪のない市民を標的とし、政治またはイデオロギーを動機とする暴力行為と定義している。ロバート・ゴーディン氏を始め、恐怖を広めることを意図しているという点を、定義に含める学者もいる。

 一部報道によると、ウラー氏は「イスラム国(IS)に触発」された。サイポフ氏もまた、ナイトクラブ「パルス」銃撃犯と同様、ISへの忠誠を示していた。サイポフ氏は単独犯だが、イデオロギーを動機としていたと見られており、罪のない市民を殺害し、恐怖を広めた。ディラン・ルーフ氏は、国内テロの罪には問われていないものの、彼もまた人種的憎悪というイデオロギーを動機としていたため、いかにもテロリズムの定義に当てはまりそうである。

 これに対し、テキサス州の教会で発生した銃乱射事件の犯人であるケリー氏も、罪のない市民を殺害し、恐怖を広めたが、しかし動機はイデオロギーと無関係のようだ。つまり、殺人犯の一部を「テロリスト」と断定することで、ケリー氏のような殺人犯と、動機の点で区別することができる。

◆テロリストと、その他の殺人犯の比較
 しかしテロリストとは本当に、その他の大量殺人犯よりも、道徳的に強い非難を受けて当然なのだろうか。テロリストは特に、おそらく次の2つの理由から、強く憎むべき存在だとされることが多い。まず、イデオロギーを動機とする暴力行為は、罪のない市民の日常に対する脅威が、その他の暴力行為よりも大きいためである。そしてテロリズムは、「日々の生活に恐怖を植え付ける」ためだ。アメリカの様々なテロ対策を正当化する時に、このような理由が挙げられる。

 しかし私は、これに異議を唱えたい。

 2001年12月~2015年12月には、5件のテロ事件が発生し、24名が犠牲となった。2016年に発生した、2001年以降史上最悪のテロ事件であるオーランドの銃撃事件を含めれば、15年間の犠牲者は73名となる。しかしこれと同時期に、大規模銃撃事件で毎年約500名が犠牲になっている。さらに衝撃的なのは、2003年~2014年の間に、家庭内で発生した殺人事件で、5,000人以上の女性が殺害されていることだ。女性の4人に1人が、生涯のうちに深刻な家庭内暴力を経験するという事実がある。

 しかしテロリストが、私たちの基本的な安心・安全を脅かす存在であるということには同意する。テロリズムは、被害者やコミュニティに対し、深刻かつ長期的な影響を及ぼす。哲学者のカレン・ジョーンズ氏によると、意図的なな暴力行為に巻き込まれた被害者は、自然災害や事故の被害者以上に「精神的ショック」を受けやすい傾向にある。

 これはしかし、テロリストとされていない大量殺人犯についても言えることだ。銃乱射犯は、教会や映画館、学校に居合わせた市民を殺害した。大規模銃撃事件もテロリズムと同様、被害者やコミュニティに深い傷を残している。

 そしてこれは、家庭内暴力についても同じである。家庭内暴力は、女性の心身の健康を大きく害し、子どもたちを傷つける。そして女性は、夫婦関係に安心感を抱けなくなってしまう。学者のジェイ・スローン・リンチ氏は、これが「家庭内暴力の真の姿を、テロリズムだとする」理由だと言う。この意見には、クラウディア・カード氏を始めとする哲学者らも賛同している。

◆一貫性のなさ
 家庭内の殺人事件や、テロ以外の大規模銃殺事件の場合、テロ事件を超える数のアメリカ国民が命を落とし、市民の安全・安心が損なわれたとしても、銃規制法を新たに整備するなど、徹底的な予防対策を求める声はそう上がらない。実際のところ、銃規制法に関しては、大規模銃撃事件の後、強化されるどころか緩和されるケースもあった。

 倫理的な観点から言えば、それは問題である。2件の暴力行為により、同じ数の人が死傷し、被害者とコミュニティに同程度の影響が及び、不安や恐怖が広まった場合、私たち社会は、イデオロギーが動機か否かに関わらず、2件の行為を、同じように憎むべき事件として捉えるべきだ。そして、そのような行為の予防に向け、同等の緊急性をもって取り組むべきである。

 しかし私が見たところによると、そのような意識を持っている人は少ない。それでは公平性を欠いている。大規模殺人と家庭内暴力の被害者に対して不平等だ。このような事件の被害者の安心と安全は、テロリズムの被害者と同じだけの怒りを呼び、徹底的な予防対策を求める声があって然るべきとは見なされていない。

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by t.sato via Conyac

The Conversation

Text by The Conversation

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