死者の遺志を、生者の意思よりも優先させることは倫理的であるのか?

Onchira Wongsiri / Shutterstock.com

著:Barry Lam(ヴァッサー大学 associate professor of philosophy, デューク大学  Humanities-Writ Large fellow)

 もし、すべての人間が死亡後も選挙に一票を投じることができるとしたら、その国はどのようになるか想像してもらいたい。遺書の中にあなたの希望を書きとめておけば、保守党、自由党、アジア人候補者、もしくは白人分離主義者というように、全ての選挙に永久的に投票可能で、あなたの一票が生者の一票と対等に扱われる。もし、死者の遺志を執行するような法律基盤が確立されたとしたらどうなるか、想像してもらいたい。死者の遺志が、生者のニーズや将来世代の福祉と相反するような際にも、その法律は死者の遺志を尊重することを支持するのかもしれない。

 私達は圧倒的に正しい倫理観により、このような社会を認めません。私達は、生者の政治制度に影響をもたらすような権利は死によって喪失されると信じます。しかしながら、このような倫理判断は、政治的には明確であっても、論点を富に移すと不明瞭になります。故人の遺志を実現するための巨大な産業が存在し、ずいぶん前に亡くなった富裕層の遺志を実現するために、寄付、慈善信託、ダイナスティ信託や相続法などを通して、米国経済における何兆ドルものお金や、さまざまなレベルに及ぶ多くの法的機関が手いっぱいな状況である。英国もおくれを取ってはいない。貧富の差が大きくなるにつれ、今日の富裕層は将来の経済で回るであろう多額のお金までも自分たちの現在希望する用途に割り当てている。このような取り組みはエリート制度文化に深く根付いたもので、世間にも定着しており、人目につかない法律雑誌や慈善団体くらいしか、その公正に関して懸念を述べるものもない。

 米国では、富裕層は死後も富を所持し、増やします。そして国家は、故人の支出に関する遺志をさまざまな方法で執行します。例えば、あなたの孫があなたと同じ宗教に所属している人と結婚することや、あなたの名前が学校に付けられる事になった際には、学校が経済的に破綻してしまうことになった際でも、名前を変更することを禁じるなどが遺産相続の際の条件となり得ます。もしくは、個人が現在そして将来持ちうる財産を、子孫のために非課税のトラストに確保することができる。この非課税のトラストでは、資金は増積され、また債権者から永久的に保護される。三つ目の法的手段は慈善信託であり、これにより信託人は、生きている間、そして死後の財産を“慈善“とみなされる目的のために割り当てることができる。この”慈善”とみなされる目的は幅広く、捨てられたモルモットのケアから、ヒューイ軍用機の保存まで様々なものが含まれる。病院や美術館、博物館、大学等の非営利施設等も亡くなった資金提供者達の遺志を反映するために、支出の大きな割合を束縛されている。これらの遺志とは、超心理学に寄付教授職を設けることや、建物の一部をアメリカの南部連合支持者を先祖に持つ個人の住居と当てる等である。

 これらの慣習は再考してみると不可解なものである。社会の中でこれが善いとされる考えは、社会事情の変化に応じて変化されるべきである。がん研究への財政的支援はがんが存在する社会においてのみ善しとされる。遠く離れた子孫に巨額の富を与えるのはよいが、その子孫が社会病質者であった場合には善しとされるべきではない。にも関わらず、私達は現代社会のことなどもはや知る由もなく、この遺志による支出から利益も損害も受けることのない故人に選択の権限を委ねているのだ。

 実際のところ、死者が死後の社会に影響を及ぼすような権利を喪失するという考えは、私達の倫理感に近いものであり、この考えは法律の至る所に反映されている。あなたが、配偶者にあなたの死後も再婚をしてもらいたくないと思っていても、国家はそれを強制はしない。もしも、あなたの配偶者があなたの死に際にそれを約束したとしても、その配偶者がその約束を破ることは法的には違法ではない。企業において、その会社の創設者が、会社の将来像に関して強い意向を持っていたとしても、その創設者の死後にはその意向を実施することを企業は義務とする必要はない。このような人の死後の願望は、私達が今何をすべきかという議論においては、ほとんど影響力を持たない。また、私達はこのような願望を優先させるために法的機関を設置したわけでない。

 しかしながら、個人の財産に関する遺志に関しては、私達は様々な権利を与えている。このような故人の財産を加算するとおよそ何兆にも達し圧倒される。現在の富の不平等な状態と、故人の遺志を執行する現行の慣習が続くことを考えると、将来の経済は、生者の大多数の意思よりも、過去の上流階級の遺志を反映するものになりうる。死者の遺志を尊重しすぎることで、深刻な世代間の経済的不平等を招きかねない。

 現在の慣習の皮肉な点は、生者の福祉を妨害している責任が、生者自身にあるということだ。もし私達がこれらの慣習を変更したとしても、死者は文句を言うことはない。そもそも生者の制度であり、その制度により自分が苦しむことになったとしても、正直なところ死者の遺志のことで死者を責めることは出来ない。私達は慈善目的の支出を奨励するための永久信託を必要としない。ビルゲイツのような昨今の慈善家は、人の生きている間に行った慈善活動だけでも大きな影響をもたらすことが可能だと考える。この考えが、ギビング・プレッジの基盤となっている。

 それならば、私達はなぜいまだに死者にこのような永久的な権利を与えているのか?私達は誤った倫理的責任から、まるで愛する者と死に際に約束をしたかのように、死者の遺志を尊重しているのではないかと考える。しかし、死に際の約束は無条件なものではなく、永遠のものでもなく、自己本位の、経済的若しくは倫理的に、私達の生活を犠牲にしたうえで成り立つものであってはならない。死に際の約束は、むしろ生者との約束のようなものであるべきだ。もし、自分の子どもに飴をあげると約束したにも関わらず、自分は悪いわけではないのだが、唯一入手可能な飴を入手することで現在の飴の持ち主に倫理的に深刻な犠牲を伴うことになってしまう場合は、この約束を義務と感じ実行する必要はない。約束自体は倫理的価値を持つが、他の倫理的要因を上回るほどの価値はもたない。

 現在、死に際の約束を絶対的なものとするもう一つの理由は、私達は、死ぬことにより長年にわたる影響力を失うことに耐えられず、自己の利益や価値観が自分の死後も維持されたいという自己本位の願望を持っているものであるからである。この怖れを克服し、自分達の遺志も保証するために、現在の法的機関が死者の遺志を尊重することを許可しているのである。しかし、この慣習は空虚で自己陶酔であることを認識し、生者にとって一番善いことを、生者自身が決定して、実行することが必要である。

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Translated by Conyac
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