“米国は謝罪を” 東京大空襲70年、日米政府に対応求める被災者の声を海外報道

 70年前の3月10日、東京は史上最悪とも評される米軍の大空爆を受けた。このことを記録する公的な施設はない。しかし、その甚大な被害は見過ごすことのできない歴史的事実であると海外メディアが報じている。

◆「地獄だった」
 1945年3月10日、真夜中、ナパーム弾を積んだ米軍のB-29爆撃機が東京に空爆を開始した。それまでの空爆では、飛行機の製造工場や軍事施設が標的だったが、東京大空襲は、主に一般の人々が狙われた、とAPは報じている。特に東京の下町では、人々は木と紙できた家に暮らしていたと同紙は説明し、平方マイル(約2.59キロ平方)あたり10万人を超える人口密集地帯もあったという。歴史家の山辺昌彦氏は、「(下町には)多くの工場もあったが、この地域が特に選ばれたのは、爆撃のし易さからだ」(AP)と解説した。

 空爆の目撃者は、「(爆撃機は)手が届くのではと思ったくらい、近くを飛んでいるようにとても大きく見えた」、「雨のように爆弾が降ってきた。赤そして黒。一番覚えているのはその時の色だ」(AP)と話している。また別の生存者は、「地獄のような狂乱、ものすごく残酷なことが起きていた。人々は、燃え上がる火から逃げるため、水路に飛び込んだ」(AP)と混乱する人々の様子を伝えている。

 B-29の爆撃は2時間40分続いた。夜が明けたとき、生存者が目にしたのは、焼け焦げた死体と工場などの瓦礫だったという。警視庁に所属していた警察官・写真家の石川光陽氏は、焦げた死体が黒いマネキンのように積み上がっている様子を写した。

 ある人は、「世界の終わりのようだった」と表現し、また別の生存者は「あの時に漂っていた匂いを忘れることができない」(AP)語っている。

◆検証を怠った
 東京では、空襲によって、8月9日の長崎の原爆投下よりも多くの死者が出た。3日後の広島の原爆投下による死者数とほぼ同じだ、とAPは報じた。しかしながら、さらに日本の60以上の街にも爆撃が行われたが、これらの事実はほとんど注目されていない、とAPは指摘した。

 米国戦略爆撃調査団(USSBS)の推計によると、1944年1月から1945年8月まで、米軍は15万7000トンの爆弾を日本に落とした。広島の8万人、長崎の4万人を含め、33万3000人が死んだとされるが、その他の調査では死者の数はさらに多いという。

 米コーネル大学の歴史学者マーク・セルデン氏は、「日本とアメリカどちらも、政府、新聞、テレビ、ラジオ、そして小説家までが、重要な事件は原爆投下だと決めてかかった」とし、「このことが、とても大事ないくつかの疑問を避けてしまうことになった」(AP)と検証の必要性を説いている。

 山辺氏は、「記録がなければ、議論もされない。戦争の被害者たちが無名のままでは、賠償の圧力もかけられない」(AP)、と調査を進めることを求めている。当時8歳で被災した二瓶治代さんは、「事実を認めて謝罪をして欲しい」(豪公共放送局ABC)と日米両政府に対応を求めている。

◆戦争中のモラルはどこに
 英インデペンデント紙は、東京大空襲は、第二次世界大戦終結前数ヵ月間の狂気的破壊行為の幕開けだった、と報じている。同紙は、日本帝国は、ドイツのナチスのように、中国の都市に行った空爆、南京での強奪の報いを受けるべきだと、思う人もいるかもしれない。しかし…モラルはどこの国に存在していたというのか?と問う人もいるだろう、と戦争中の良心的判断の難しさを指摘した。

 日本への空爆を指揮した、カーチス・ルメイ元米空軍大将は、米軍は「東京を一晩で、焼きつくし、煮えたぎらせ、からからにした。広島と長崎を合わせた以上の人々をだ」と話していた、とABCは伝えている。また、もし、自分が敗戦国側にいたとしたら有罪だっただろう、と認めていたという。

 上述のセルデン氏は、以下のようにも述べている。東京空襲のひと月前に行われた、ドイツ東部ドレスデンの空爆について、ヨーロッパで十分な議論が行われ影響を及ぼすことができていたなら、「遥かそれ以上に破壊的な日本の都市への空爆の後、アメリカやヨーロッパで激しい嫌悪の波が起きることはなかっただろう」(インデペンデント紙)と歴史を振り返っている。

Text by NewSphere 編集部