世界が賞賛の音楽教育指導法『スズキ・メソード』とは? “真のクールジャパン”と米紙指摘

 『スズキ・メソード』をご存知だろうか。1898年(明治31年)生まれの鈴木鎮一氏が戦前から始めた音楽指導法である。赤ちゃんが耳から自然と母語を覚えるように、音楽も主に「聴く」ことから育てるという独自のシステムで、特に海外で高く評価され、広く活用されている。

◆海外で広まった経緯
 鈴木氏は20代を主にベルリンで過ごし30歳で帰国した後、日本で演奏活動とともに音楽指導を始めた。しかし戦争が始まると、鈴木氏の生徒達は「国民が闘っている間に音楽の演奏など非国民の行いだ」との誹りを受けたという。そのため、鈴木氏が音楽教育と同時に志していた「教育者を再教育し、教育そのものを改革する」という目標もうまくはいかなかった、とニューヨーク・タイムズ紙は伝えている。

 鈴木氏の活動は、終戦10年後の1955年、東京体育館で開いた第1回全国大会(グランドコンサート)を機に一気に開花した。1200名の生徒によるヴァイオリンの大合奏を記録した映像は、海を渡りアメリカで上映され、指導者達に衝撃を与えた。これだけの大人数をこれだけ高い水準に導いたその脅威の秘訣を探るべく、多くの指導者達が何度も松本を訪れては研究し、自国へと伝えたという。

 その効果の高さから、スズキ・メソードはその後各国へと瞬く間に広まった。1963年、鈴木氏は生徒達を連れた演奏旅行を始め、アメリカツアーを皮切りに30年間世界中をまわった。同氏は1998年に亡くなったが、スズキ・メソードは今や46ヶ国に普及し、海外では非常にメジャーな指導法となっている。

◆「耳」から育てる指導法とは
 鈴木氏が帰国後指導を始めた当初、その生徒たちが低年齢にも関わらずあまりにも高い技術を持っていたため、当時日本のメディアは彼らについて「特別な才能を持つ子供たち」と報じたそうだ(ニューヨーク・タイムズ紙は)。

 しかし「教え方次第で誰でも成長できる」という信念を持っていた鈴木氏は、「天才」「神童」といった言葉を特に嫌ったという。スズキ・メソードの目的はプロの音楽家を大量生産することではなく、あくまでも思慮深い人間性と高潔な心を育むこと。ゆえに音楽の喜びはどんな環境のどんな子供にも手が届くものでなくてはならない、というのが同氏の考えであった。

 スズキ・メソードの出身であるジャズ・ヴァイオリニストのレジーナ・カーター氏は、米ハーバード大学の学生新聞『ザ・ハーバード・クリムゾン』でこう語っている。「ジャズは、もともと経済的に恵まれなかった層の音楽。その昔、楽譜やレコードを買うお金がなかった人々は、ラジオやショーで聴ける音楽から音楽を学んだの。スズキ・メソードは、その感じに近いと思う。だから耳から学ぶというのは、私にとって最も自然な方法だった。いろいろなスタイルの演奏法を聴いて自身のスタイルの参考にする、という点でもとても役に立つわ」

◆本当のクールジャパンとは
 ニューヨーク・タイムズ紙はスズキ・メソードについて「最も過小評価され見過ごされている日本のコンテンツ」と表しており、「日本はクールジャパンと称し自国の文化を世界に売り込もうとしているが、日本自身何が本当のクールジャパンなのか気づいていないのではないか」と指摘している。

 スズキ・メソードは、ヨーヨー・マなど世界レベルの著名な音楽家を輩出している。しかしながら、なぜか国内では認知度が低く、世界40万人の生徒のうち、日本人はたったの2万人だ。読売新聞によると、鈴木氏の教え子達が指導者養成のために長野県松本市に設立した『専門学校国際スズキ・メソード音楽院』は、生徒数の減少などで今年度末に廃止となり、以後は専門学校ではなく私塾として指導者養成を続けるという。

 ベネズエラには、音楽を通じ人間性を育み、困難な環境にいる子供達の人生を変える、という目的で創設された「エル・システマ」というプログラムがある。これは、鈴木氏の教え子であった小林武史氏が1970年代にスズキ・メソードをベネズエラへ伝えたことがベースとなっているのだが、日本との最大の違いは、経済的な公的支援があるという点だ。

 この「エル・システマ」が、今や日本へと逆輸入されている。『相馬子どもオーケストラ』は、震災被害で心身ともに影響を受けている子供たちに、音楽を通して生きる力を育むことを目的に創設された。このような状況についてニューヨーク・タイムズ紙は、「彼らはその恩恵と効果を認識しつつも、実は元々自分たちが持っていた文化であることに気づいていないのでは」と述べている。

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Text by NewSphere 編集部