『果てしなきスカーレット』AP評・星2つ 想像力が重荷となった異界のハムレット

Sony Pictures Classics via AP

 日本の脚本家・監督である細田守は、夢のような世界へ深く跳躍する驚くべき映画をいくつも作ってきた。

 細田の『未来のミライ』(2018年)は、生まれたばかりの妹に反感を抱く4歳の少年を描く。だが裏庭の庭で、少年は妹がティーンエージャーになった姿と出会う。これが家庭内の時間旅行の始まりにすぎず、少年は親族たちとそれぞれの人生の別の時点で対面していく。やがて新しい理解が芽生え始める。

 『竜とそばかすの姫』(2021年)では、悲劇を経験したティーンエージャーが、仮想空間で高揚するカタルシスを見いだす。私はこれをその年の最良作の1つだと思ったし、いまなお、インターネットについて描いた映画としては史上最高かもしれないと感じている。いずれにせよ、歌が魂を引き裂くようなクライマックスは忘れ難い。

 だが細田の最新作『果てしなきスカーレット』では、監督のうらやましいほどの野心が、まとめ上げる力を超えてしまっている。主人公は中世の王女で、王である父が叔父に殺されるのを目撃し、自身も命を落としたのち、広大な煉獄で目を覚ます。この奇妙な来世は、あらゆる時代の死者で満ちており、彼女は父の仇を討つため復讐を求める。

 「ハムレット」を超現実的な冥界へ移植した日本のアニメが、平均的なアニメ映画より野心的であることは誰もが認めるだろう。大半のカートゥーン、あるいは実写映画と比べても、『果てしなきスカーレット』の問題は想像力の欠如ではない。想像力が過剰なのだ。

 『おおかみこどもの雨と雪』や『サマーウォーズ』も手がけた細田には、視覚的に複雑なアニメ世界を構築しつつ、実存的な理念を子供のような真摯さで追いかける並外れた才覚がある。だが『果てしなきスカーレット』は、バロック的な造形、感情、スケールが過剰になり、それが作品を沈めてしまう。過ちとして許せる種類の失敗でもある。手を伸ばしすぎて失敗するのなら、せめて「ハムレット」を途方もなく野心的に翻案した試みであってほしい。

 スリリングな序章は16世紀のデンマークを舞台にする。スカーレット(芦田愛菜)が見守るなか、叔父のクローディアス(役所広司)は彼女の父を反逆者に仕立て上げ、処刑させる。怒りに燃えたスカーレットは、父の幽霊の訪れもないまま、クローディアスを殺しに向かう。だが先に毒を盛られるのは彼女のほうで、スカーレットは、「死者の国」と呼ばれる場所で目を覚ます。

 そこは無限の荒れ地のような空間で、さまよう魂と略奪者の一団に満ちている。人々はしばらくそこに留まり、やがて無へと消えていく。どこかに天へ続く階段があるという噂もある。クローディアスを追うスカーレットに同行するのは、彼女が出会う聖(岡田将生)という見知らぬ人物だ。現代の看護師である彼は、死者の国での時間の多くを他者の傷を癒やすことに費やしており、それはスカーレットの敵でさえ例外ではない。

 『果てしなきスカーレット』は散漫で退屈になりがちだ。ローゼンクランツとギルデンスターンまで登場する。もしこの異界がスカーレットの傷ついた良心の地図だとするなら、復讐と赦しの戦いは鈍く単純化されて感じられる。まさに苦難の海である。細田は、物語に内面性を与えようとする(それは「ハムレット」の小さくない要素だ)が、そのために聖の過去を使い、シェイクスピアの苦悩を現代へと縮約していく。

 細田は『竜とそばかすの姫』に「美女と野獣」を接ぎ木し、ときにぎこちなく、ときに啓発的な効果を生んだ。だが『果てしなきスカーレット』では、「ハムレット」を現代へ橋渡しすることに苦戦している。大きな賭けであり、細田ほどの才能ある映画作家なら挑むべき種類のものだが、成果には結びつかない。それでも、しばしば目を奪われるような映像で、情熱が途切れることもない。細田が、震えるほどオペラ的な高みへ到達しうる監督であることに変わりはない。たとえば『果てしなきスカーレット』では、クローディアスに壮観な死の場面が与えられる。彼がすでに死んでいることを思えば、これは注目すべき達成だ。

 『果てしなきスカーレット』(ソニー・ピクチャーズ・クラシックス配給)は(訳注:アメリカで)12日に限定公開され、来年2月6日にIMAXで公開、2月13日に全国拡大する。モーション・ピクチャー・アソシエーションによるレーティングはPG-13(暴力と血の描写)。字幕付き日本語版と英語吹き替え版で上映される。上映時間は112分。評価は4つ星中2つ星だ。

By JAKE COYLE

Text by AP