ジェームズ・ボンド映画の新作が来秋公開 007シリーズの性差別から目を逸らさず、立ち向かう

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著:Monica Germanà (ウェストミンスター大学、Senior Lecturer in English Literature and Creative Writing)

 ジェームズ・ボンドに「現代社会」の事情を教えたい――2019年11月公開予定の007シリーズの新作映画と次回作におけるお約束の“ボンドガール”の描写に“#MeToo”や“Time’s Up(時間切れ)”ムーブメントが与える影響について質問を受け、ダニー・ボイル監督は語った

 007シリーズにおける性差別への非難は今に始まったことではなく、決してお門違いでもない。しかし再燃したフェミニスト運動からすると、一連のボンド映画における女性の主体性のなさは女性らしさの表現に対する根深い保守的なアプローチと、芸術業界における女性弾圧の表れだ。

『007 サンダーボール作戦』(1965)でボンドの性的な傲慢さを非難する悪役フィオナ・ヴォルペは、手ごわい女性としての地位を確立している。情事の後、彼女は辛らつな言葉を放つ。

うぬぼれ屋さんなのね、ボンドさん。ジェームズ・ボンドと寝ただけで女は昇天して、悔い改め正義の側に寝返るというけれど、今回は違う。失敗するとは夢にも思わなかったでしょう。

 フィオナの辛辣な皮肉は、ボンドの性的な当てこすりと女性に対する横柄な態度への見事な切り返しであり、彼女の願望が逆にボンドを脅かしているのだ(この前のシーンで彼は、『檻の中に閉じ込めるべきだ』と彼女に言ったのだ)。

『007 ゴールデンアイ』(1995)で、ボンドに(ウォッカ・マティーニを)どう飲みたいか尋ねられたゼニア・オナトップは「Straight up, with a twist(ストレート、レモンを添えて)」と伝えた。これは言葉通りに取れば「上に乗って、ひねる」となり、彼女の積極的な性的嗜好を暗示し、彼女がサディスティックな暴力、とりわけ、その力強い太ももで男たちを絞め殺す彼女の能力によって達成感を得ることを意味している。

◆ふざけた名前と露出の多い衣装
 ボイル監督の声明を受けてデイリー・メール紙は、『これからのスパイ映画の女性は“ふざけた名前と露出の多い衣装”ではなく“現代社会”を考慮して描かれる』と記載したが、これは女性の露出と性差別を短絡的に関連づける。しかし、美しさの誇示と抑圧を関連付けてしまうと、女性たちはあらゆる主体性を奪われる。ボンドガールは、「本来、セクシーに見せ相手を立てるために存在している」のではないと、バーバラ・エレン氏はオブザーバー紙で述べている。そう、彼女たちは相手を魅了する(そして殺す)ために装うのだ。

 1975年に発表された画期的な研究の中で、イギリスの映画研究者ローラ・マルヴィ氏は、古典的なハリウッド映画のスクリーン上の女性の存在は、男性の視線によって制御し抑制され、欲望の受動的な対象に貶められていると述べている。これを受け、イギリスの映画研究者パム・クック氏は、次のように反論している:

見せるという行為は受動的と見なされます。男性の視線は、女性の体に向けられた男性主人公/観客の強迫的不安の単純な表れなのです。

 だが服装についてとやかく言うよりも、女性の自己顕示欲を能動的に捉えることによって女優や女性の登場人物、そして世界中の女性の主体性は増すのだ。

◆原作も下品なら、映画はもっと下品?
 オーストラリアのフェミニスト作家クレメンタイン・フォード氏は、ボンドガールたちは「美しく、知的で、時に二枚舌で、みんな高確率で使い捨てられる」と評している。しかし、何人かは(直接的にせよ間接的にせよ)ボンドの手で殺されてしまうという事実は、厄介払いというよりは、007シリーズの根底にある女性の性的な解放に対する不安の表れだ。

 事実、暴力とサディズムは、女性を抑圧する家父長制の操作的な手段を女性観客に想起させ得る。アメリカの学者タニア・モドゥレスキー氏は、ヒッチコック映画における女性蔑視について考察する際次のように主張している。

家父長制の下で女性が抑圧される様を(ヒッチコック)映画が見せ続ける限り、女性観客は、フェミニズム批評家によって背負わされた被虐的な反応とは真逆の怒りを覚える。

 ボンドの話題に戻ると、アメリカの社会学者リンダ・リンジー氏は2005年に「40年続くボンド映画の中で…… 女性はレイプされて喜んでいるように描かれている」と述べている。これはレイプが性的空想の域を出て現実にも楽しい経験たり得るという疑わしい見解を根拠にしており、複雑な女性の欲求を考慮していない。

 ボンド文化の産物である暴力性に注目しているのはリンジー氏だけではない。1958年に発表され大きな影響を与えた『セックスと優越意識とサディズム(Sex, snobbery and sadism)』という記事で、ポール・ジョンソン氏がイアン・フレミングの小説『007 ドクター・ノオ』を「これまで読んだ中でいちばん下品な本」と呼んだのは有名だ。

 映画にも不快なシーンが多数登場する。内部情報を得るために、ボンドは『007 ロシアより愛をこめて』(1963)でタチアナ・ロマノヴァを、『女王陛下の007』(1969)でトレーシー・ディ・ヴィンセンゾを殴った。悪役はしばしばサディスティックな傾向を見せる。『007 ゴールドフィンガー』(1964)を象徴するジル・マスターソンの金粉で覆われた死体は、『007 慰めの報酬』(2008)でストロベリー・フィールズの原油まみれの死体として使い回される。『007 ムーンレイカー』(1979)では、コリンがヒューゴ・ドラックスの犬に無残に殺され、『007 私を愛したスパイ』(1977)では、ストロンバーグの秘書がサメの餌食になる様子が生々しく描かれる。

◆女性蔑視に挑む
 ベン・チャイルド氏は先頃ガーディアン紙で、ボンドの暗部についての話し合いは、「はるかに受け入れやすかっただろう…… この粋な秘密諜報員がイギリス人の上品さの典型と若者の手本として売られていなかったら」と主張した。しかし、賛美を控えることは必要だが、ボンド映画から暴力を排除するのは違う。

『007 スカイフォール』 が中国で公開された当時、検閲に従って売春と拷問に関するシーンがカットされたが、これは女性支援のためというよりも、この国の人権の取り扱いについての悪いイメージを隠すために行われた可能性が高い。

 実際、政治的に正しいボンド映画は、男女平等の追求を妨げるだろう。サラ・ヒラリー氏、ヴァル・マクダーミド氏をはじめとするスリラー作家は、このほど新設された、女性に対する暴力を売り物にしないスリラーに贈られるスタンチ賞(Staunch Prizeに懸念を表明している。ソフィー・ハナ氏は、「残虐性を無視することは名案のように思えますが、それでは解決になりません。私たちは偏見を認めるのではなく、立ち向かわなければならないのです」と話す。

 それこそが、新しいボンド映画がやらなければならないことだ。

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by Naoko Nozawa

The Conversation

Text by The Conversation