映画『ラブレス』レビュー 脳裏から離れない痛ましき少年の姿

Sony Pictures Classics via AP

 アカデミー外国語映画賞ノミネートのロシア映画『ラブレス』は崩壊した家庭が瀕する転機と悲劇を、美しいショットによってエレガントに描き出した作品だ。と同時に正直に言うと、鑑賞中から観賞後に至っても心に残る陰鬱さや不快さゆえ、最大限の注意喚起を行った上でようやく推薦することができる作品でもある。 

 アンドレイ・ズビャギンツェフ監督(同様に陰鬱とした作品『裁かれるは善人のみ』もこの監督の手によるものだ)による本作が焦点を当てるのは、12歳になる子を持ちながらも、長年にわたり互いへの恨みや憎悪を募らせるジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)とボリス(アレクセイ・ロズィン)の二人である。互いにストレスを与え合う二人の関係はほぼ終焉を迎えており、それぞれ別のパートナー(ジェーニャは成人した娘を持つ年上の裕福な男性、ボリスはすでに自分との子を妊娠している金髪の若さと魅力のある女性)とともに新たに歩み始めていた。ジェーニャはアパートを売りに出し、ボリスもすでに新しい恋人と暮らし出している。そのような中二人は、互いとも引き取りたがることのない息子アレクセイをどうするか、決着をつけなければならなかった。

 マトヴェイ・ノビコフ演じるアレクセイは痩せた、ブロンドの髪の寡黙な子供だ。台詞はほとんどないが、その演技はとても記憶に残るものである。ある晩、夫婦がアレクセイのことで言い争いをしている。(寄宿学校や養子縁組など)情け容赦ない望みを互いにぶつけ合い、相手を説き伏せようとしているようだ。夫婦、そしてまた鑑賞する我々も初めは気付かないのだが、この会話はアレクセイに聞こえていた。アレクセイがずっとそこにいたことをカメラが映し出す。ズビャギンツェフ監督はおよそ5秒間をかけ、声を殺し泣いているアレクセイの顔を映し出すのだが、この5秒間は鑑賞中も映画が終わった後もずっと、観た者の脳裏から離れないだろう。

 このショットはおそらく本年で最も力強いものになるだろう。翌日、ボリスとジェーニャが新しい恋人の元に戻った後(それぞれの情事が非常に自然主義的かつ生々しく引き延ばされたシークエンスで描かれる)、アレクセイは行方不明になってしまうのだった。

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ジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)と息子アレクセイ(マトヴェイ・ノビコフ)(Sony Pictures Classics via AP)

 常に携帯を気にしている人物として描かれるジーニャ。そんな彼女が連絡を受けたのは、アレクセイが学校に姿を見せず二日が過ぎた時であった。

 行方不明の子供を捜索しようにも適切な手順を踏まねばならない警察当局、そして何よりも効率悪く思えるこの一連の手続きの間は仲違いした両親も互いに寛容であろうとする、というこの場面で、本作は緩慢とした警察ものドラマの様相を呈する。しかし、この作品は容赦ないほど冷酷なものである。ジェーニャとボリスの二人がこのまま子供が現れなければそれでいいと考えている様子を観る者に伝えるのだ。息子の存在を疎ましく思う、あまりに自己中心的な二人にとって、息子の失踪は実のところ、お荷物無しに新しいスタートを切るきっかけとなるものであり、二人は共にそれを望んでいるのだ。

 ロシア、モスクワ郊外という舞台もまた陰鬱としている。磨き上げられた現代的事物と灰色で寒々しい風景が呈す衰退の様相が不穏に組み合わされ、ラジオやテレビからは戦争と破壊のニュースだけが報じられる。『ラブレス』がプーチン政権下のロシアに対するある種の批判であるという声も多く聞こえるが、特にこのようにアクチュアルなプロットが描き出す世界自体が魅力的な作品においては、その批評性は国外の鑑賞者にとっては伝わりにくいものかもしれない。しかしそれはあくまでこの無慈悲で難解な作品の一部分にすぎない。

 作中には人間らしさが描き込まれる場面も見受けられるだろうが、おそらく映画が終わるまでには、この許し難いほど利己的なジェーニャとボリスから目を背けたくてたまらないという思いに駆られるだろう。そう、エンドロールが流れた後、この絶望感が拭い去られるかどうかというのは、全くの別問題である。心して向き合ってほしい作品だ。

編注:『ラブレス』は、4月7日から全国公開。

By LINDSEY BAHR, AP Film Writer
Translated by So Suzuki

Text by AP