Singing death(死を弔い歌う):音楽と悲しみが両立する理由
著:Heren Maree Hickey(メルボルン大学 Researcher in the Australian Research Council for the History of Emotions)、Helen Dell(メルボルン大学 Research Fellow, Medieval Song and Poetry, Medievalism, Nostalgia)
マンチェスターでの6月のテロ攻撃の後、めずらしいことが起こった。 セント・アン広場に集まったマンチェスター市民は、1分間の黙とうの後、OasisのDon’t Look Back in Angerを自発的に歌い始めた。悲しみのあまり言葉が不適切になったときは、心の底から湧き上がってくる感情に、音楽が声を与えることがある。
音楽は長い間、喜び、悲しみ、祝福、そして儀式といった感情的な表現に関連付けられてきた。 しかし、悲しみを表現するときにこそ、音楽は最も力強く響く。 特に、親しい人が亡くなったり、戦争や病気で多数の人が亡くなったりしたときの避けることのできない悲しみには、音楽を演奏する必要があるようだ。 ときに死を取り巻く音楽は、死者についてだけでなく、残された人についても同じくらい多くのことを我々に教えてくれる。
◆公の死、公の悲しみ
バーニー・トーピンとエルトン・ジョンのGoodbye England Roseは、元イギリス皇太子妃ダイアナの葬儀のために書かれたもので、市民が彼女を失った悲しみを克服するのを手伝った。 この曲は、Candle in the Windという曲を書き直したものである。 「you whispered to those in pain(あなたは苦しんでいる人にささやいた)/ Now you belong to heaven(あなたは今天国にいる)/ And the stars spell out your name(そして星はあなたの名前を綴る)」という歌詞は、ダイアナの慈善活動を聴衆に思い起こさせると同時に、著名であることは諸刃の剣であることも思い起こさせる。 ウェストミンスター寺院の外にいた人々は演奏中にあふれる涙を隠そうとはしなかった。エルトン・ジョンはそれ以来その曲を演奏していない。
しかし、音楽的トリビュート(特定の人物・グループに対して敬意を示すために制作されたもの)を促すのは有名人だけではない。 1992年にカナダ、ノバスコシア地方のウェストレイ炭鉱で起きた爆発が26人の命を奪ったとき、突然起きた大きな悲劇とそれが家族や地域社会に及ぼした社会的・経済的影響は個人の悲しみをさらに増大させた。 その後、ゴーストライダーやアライド・ホーンズによるWestray Trilogy(ウェストレイ・トリロジー)など、地元ミュージシャンによる50のトリビュート・ソングが制作された。
西欧社会では少なくとも、スピーチで悲しみの言葉を延々と繰り返すことは一般的に受け入れられない。 しかしこういった歌で悲しみの言葉を繰り返すことは受け入れられることがある。 繰り返し歌ったり演奏したりすることが禁じられることはない。 歌が歌われると、私たちもおそらく泣くだろう―明らかな外部トリガーに対して感情的な反応をすることは受け入れられるのだ。
テロリストの意図は、災害への対応の仕方とそれに関連する音楽をさらに複雑にしている。 9.11以降、サミュエル・バーバーの弦楽のためのアダージョ Op.11は、公の喪の場で最も広く演奏される西洋音楽作品となった。 多くの人にとって、この曲は最も悲しい記憶と関連づけられている。
アダージョの評価は、1938年に初めて演奏された時にはあまり高くなかった。しかし9月11日以降の演奏によって広く影響力を持つようになった。このアダージョの例は、音楽が特定の人々や出来事の記憶に感情的に関連づけられることで、時には人々の曲に対する認識を変え、プロセスの中で曲自体にも変化を及ぼしながら、その力を発揮することがあることを示している。
死後の世界を信じる伝統的なキリスト教やイスラム教のような宗教では、会葬者は歌うことで死者が死後の世界に無事辿り付けるよう見届ける役割がある。
しかし、会葬者の中には、死者は死後に行く場所はなく、戻って来て生きている人々のところにしばしば現れると考える者もいる。 何か不安が残っている状態なのである。それは死に方か、もしくは喪に服する儀式が正しく行われていないという感覚に関係しているかもしれない。
死に対する恐怖はときに、生と死の間に捕らえられた死者やアンデッド(完全に死んでいない者)の恐怖にもつながる。 ゴースト、吸血鬼、悪魔、ゾンビなど、蘇った死者を扱う映画やテレビシリーズ、小説などはつきることがなく、その幻想への根強い支持が覗える。
ホラー映画では、あらかじめ録音された音楽を使って、アンデッドや悪魔の存在を伝え、その後の暗い運命を告げる。 それまで無害だった曲が、この新しい文脈の中で繰り返し流されるうちに、恐怖の感情と結びつけられるのだ。たとえば、2000年の映画「Final Destination」のジョン・デンバーが歌ったRocky Mountain Highは、悪魔的存在が登場する予兆の音楽として使用されている。 音楽が使用される文脈は、その曲に対する我々の反応を形作ることができるのだ。
◆隠喩的な死
歌の中の死は間接的に表現されることがある。 アイルランドの伝統音楽では、哀歌が比喩的に死や生死の狭間を連想させることがある。
ドニゴール地方の有名な哀歌の一つであるAn Mhaighdean Mharaは、人魚が陸に上がり、人間の姿に変身するためにクロークを脱ぐ様子を表現している。 1人の漁師がクロークを盗んで隠し、人魚は彼に魅了される。 彼は彼女と結婚し、家庭を持つ。 人魚は後に彼女のクロークを見つけ、すぐに消えてしまう。 しかし、完全に死んでいない者が生と死の狭間にとらわれるのと同じように、彼女はこの世とあの世の狭間にとらわれる。人魚は元の世界に再び帰りたいと願うものも、子供を捨てきれずにいる。 この曲の中にも、人はおそらく喪の苦痛と残された人々が死んだ人への未練を断ち切れない気持ちを察し感じ取ることがあるのではないだろうか。
11世紀、12世紀および13世紀のトルバドゥールやトロヴェール(吟遊詩人)は、しばしば愛を死に見立て、痛みを伴い引きちぎられるような思いをもたらしながらも喜びをともなうものとして語った。このような音楽の中で賞賛された恋人たちは、「残酷な貴婦人」のような愛の奴隷として、非常に受動的に描かれている。 ここでの死は、言葉で言い表すことのできない非常に曖昧な状態を代わりに体現しているように思える。 彼らの苦しみは致命的だが、しかし他のどんな死に方も望んでいない。 12世紀の詩人であるガス・ブリュレは次の詩を書いた:
Great love cannot grieve me
since the more it kills me the more I like it
and I would rather die and love
than to forget you for even a day
大きな愛は私を悲しませることができない
それが私を殺せば殺すほど、私はそれが好きになる
一日でもあなたを忘れるぐらいなら
むしろ私は死と愛を選ぶ
これらを含む様々なジャンルの数え切れないほどの作品では、音楽で死が語られる。 音楽は時には死者のために安らかに歌い、悲しみに苦しむ人々やコミュニティに安堵をもたらす。時には死と喪失の苦しみを我々につきつける。 また時には、悼みという、つらくて複雑で骨の折れる作業を反映している ―その最後に、死者はようやく安らかな眠りにつくのかもしれない。
This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by yoppo