沖縄の小さなものづくり

© Yoshinobu Ayame

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 コーヒーやチョコレートの「サードウェーブ」的手法と共通する、「原資の調達から商品化まで責任を持ってやる」という考え方は、2008年の金融危機以降の消費者マインドのシフトや環境志向と相まって、その他多くの分野にも飛び火している。

 欧米では、大ブランドや大企業がサプライチェーンを吟味して、持続性や人権の遵守に反する商習慣を排除する、という方向に向かっている。その根底には、社会活動は、規模を拡大することでこそ、社会全体へのインパクトを最大限にすることができるという経済理念が根強くある。

 日本では、工程のすべて、または大半を自分の手でやろうとする小規模の作り手に出会うことが増えた。別の場所で修行をしたり経験を積んだりして、地元にUターンする人もいれば、震災以降、都会を離れて新天地でものづくりを追求している、という人もいた。

 そして、その出会いが多いのは沖縄だった。

 2015年に私は石垣島を訪れた。石垣島で藍植物を栽培して染め、商品の縫製までを一貫して行なっている農園があるとどこかで読んだからだった。

 八重山藍「ナンバンコマツナギ(南蛮駒繋)」の畑で出迎えてくれたのは、大濵豪さんだった。化学肥料や除草剤を使わない畑で栽培した藍植物から、沈殿藍と呼ばれる原料を作り、それを発酵させて染液を作り、綿や麻などの自然素材を染め、縫製して商品化する。大濱さんは、一度は離れた石垣島に戻り、何をやろうかと考えているときに、島の藍染めを知る染め手たちが消えてしまった状況を目の当たりにして、「島の藍を守りたい」と競売物件になっていた土地を購入し、藍の栽培を始めた。土壌を整え、藍を栽培し、発酵するというプロセスを、本土の藍染め技術も踏まえて手探りでトライアル&エラーを繰り返し、自分の方法を編み出した。

 大濵さんが島藍農園と名付けた場所で、藍の染料、そして島に生息するフクギ(福木)の皮から取った染料を使って染められた布は、市内の工房で縫製され、「shimaai」というブランドのバッグやアクセサリーといった商品となって世の中に旅立っていく。藍のブルーとフクギの黄色と橙の中間色、帆布の白のストライプがトレードマークだ。

 大濵さんは、「藍染をやりたかった。商品を作るということは、それを成立させるための手段です」と言った。できればすべての工程を自分たちでやりたい、とも。だから現在、自分たちで織ることのできない布を使う以外は、できる工程はすべてやっているということだった。自分たちが管理する部分が多いほど、コスト管理もしやすい。外注の業者に工程を依頼したり、卸売の価格を付けたりすることが増えれば、価格は上がっていく。そうやって、消費者が商品に対して支払う価格と、自分たちの労力や稼ぎとのバランスを取っているのだなと思った。

 沖縄本島の名護では〈漆木工とけし〉の渡慶次弘幸・愛夫妻と知己を得た。輪島で修行し、漆器作りの技術を身に付けて沖縄に戻ってきたという2人は、名護の豊かな自然の中で、日常的に使える漆の道具や食器を作るチャレンジを始めた。弘幸さんが木工を担当し、愛さんが漆を塗る。

 木はなるべく近隣の木を使うことを心がけている。高温多湿の沖縄の気候は漆とは相性がいいが、土地の木は、漆器の道具として成立するための耐久性はいまひとつと言われる。弘幸さんは、その御しやすいとは言えない木に手をかけることで弱点を克服しようとしていた。「裏の川の水に浸けたり、外に長時間さらしたりして、木の反応を見ながら、漆器にすることができる木なのかを考える。実験的に木の様子を見るのが楽しいんです」と弘幸さんは教えてくれた。

Text by 佐久間 裕美子